wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

あべのハルカス美術館「長谷寺の名宝と十一面観音」

所用で出かけたついでに表題の展覧会を観覧http://www.aham.jp/exhibition/future/hasedera/。結構な雨の月曜日にもかかわらずそれなりに人は入っていた。文化果つる地も少しは変わったのだろうか。平安の「長谷寺式十一面観音立像」が出品されているだけで三つの院家にあり、しかも微妙に形態が異なっていて、素人目には同じ仏師の作例に見えなかった。どういう事情で造立されていったのか気になるところ。また室町の「長谷寺縁起」が長谷寺に貴人の子女用の小ぶりなものと通常版の二つ、和泉長谷寺にもう一つと三種類あり、並べられていた。このうち和泉長谷寺は地名辞典によると古代から存在したということで、堺宿院付近に現存しているのだが、中世堺によってどういう役割を果たしていたのか気になるところ。なお室町期のものとされる「長谷寺式十一面観音立像」はもと和泉松尾寺にあったものが近世初期に安楽庵策伝によって長谷寺に移されたということだが、そもそも松尾寺になぜあったのかということも含めてこれも引っかかる。また朝鮮年号の隆慶4年(1570)作の「大般若経仏」(白線描)は根来寺大伝法院僧浄法の花押が据えられている。天正11年に根来寺僧専門誉が長谷寺に入った関係で、もと根来寺にあったとされるものは他にも出品されていたが、時期的に見て朝鮮侵略の略奪品と思われるものが当時衰微していたはずの根来寺に入って、長谷寺に移ったというのはどういう経緯なのだろうか。他にも移ったものはあり、宋版一切経は解説によると宇治郡山科竹鼻住僧の梵興が明応6年に寄進したものだという。これも経緯が気になるところ。もともと律宗が絡んでいるのが気になっていてそれに関わる痕跡はないかと思って出かけたのだが、どんぴしゃでヒットするものは見当たらず、別のところで発見があった。