wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

京都文化博物館「京を描く」後期・「聖護院門跡の名宝」

昨日午後の研究会前に表題の展示を観覧http://www.bunpaku.or.jp/index.html。日曜日だったが、開館10:00に会場入りしたこともあって、かぶりつきで観ることができた。別の観覧記録で触れたような気もするが、「六道珍皇寺参詣曼荼羅図」には多数の文字注記があり、語りのためのものだと思われる。とりわけ本堂前の施行米を入れたと思われる樽に阿弥号などの人名が記されている点は興味深い。また最古の洛中洛外図屏風である歴博甲本も熟覧でき、京域に牛耕場面が多数描かれていることが実感できた。なお三十三間堂の右(南)側に陣所のような空間が見えるのがこれは何を指しているのだろうか。今回最大の発見は近世前半の複数の屏風に渡月橋が描かれていない事実が確認できたこと。中世嵯峨の絵図類には大井川に架橋された法輪寺橋(文献上の表現)がみられ、戦国の洛中洛外図屏風にも描かれるが、現渡月橋よりも数十メートル上流で位置は異なる。改めて確認するとすでに先行研究でも指摘されているようだが、どういう事情で非架橋期があって、位置が移動したのか気になるところ。秀吉の京都改造によって五条中島が破壊され、五条橋が移動したのは著名な事実だが、それとの関わりはどうなのだろうか。それに引き続き常設展の一部に設けられた展示を観覧。いくつかの文書が出ていることは確認済だったのだが、何と鎌倉期四天王寺の新出史料が展示されているではないか。実は数年前に書き上げ修正して投稿しようと思いながら、結局手が付けられていない論文が死蔵されているのだが、それとも密接に関わる案件。とにかく手帳にだけは書き写したので、何とかしなければならない。その他にも新出文書はあったのだが、それ以上に重要なのが鎌倉後期の富家殿絵図。どうも山の境界相論に関わるものだが、緑に彩色されたものの一部にだけ植栽が描かれており、戦国・近世前半の京郊の表現と全く一致している。近郊村落の里山空間がこの時期からすでに草山化していたことを示す重要な絵図といえる。なお午後の研究会では初参加にもかかわらず、ちゃぶ台返しのような発言をしてしまい、場を凍り付かせてしまった。人と会話のない半うつ状態で、たまに出かけるとこの有様。とりあえずいろいろな方とお話しができ、当方はよかったのだが・・・。なお写真は午後の会場への移動で立ち寄った三条新町の高松明神社(高松殿跡)。姉小路通りが烏丸から堀川に向かってかなり下っているというのも実感できた。
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