wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

富田林寺内町ほか

本日は母親の手術承諾書サインのため病院および実家へ。昼に病院で説明を受けてから、夕食まで時間があったため東高野街道を1時間半ほど歩いて富田林寺内町へ。2011年正月に訪れ当ブログでも触れているが、公開施設は休館で写真も紹介していないので備忘をかねてここに記しておく。富田林は富裕住人層が興正寺を誘致して「大坂並」の寺内町特権を獲得したことで研究史上著名なところで、近世建築が多数現存し、ほぼ重要伝統的建築物保存地区に指定されている。公開されているのが富田林八人衆の一人とされる旧杉山家住宅で、土間部分は17世紀中期とされ重要文化財に指定されている。杉山家は近代には明星派歌人日露戦争期に「みいくさに こよひ誰が死ぬ さびしみと 髪ふく風の 行方見守る」という歌を発表するも、家付き娘として養子を取り作歌活動を禁じられ、あげく夫・息子に先立たれ、戦後直後には蔵を共産党事務所に提供したという苦難の生涯をおくった石上露子(本名杉山孝子、1882~1959)を生んだことでも知られる。造り酒屋にしては小ぶりな気もするが、近世後期の狩野派の障壁画もある立派な屋敷で、屋敷図・孝子の遺品なども展示されていた。その他に寺内町センター・じないまち展望広場・じないまち交流館(名称は原文ママ)などの案内施設があるが、興正寺をはじめとする寺院は境内すら入れなかったのはやや残念。なお寺内町南側は石川への急坂で区切られているのに対し、北側にはさほど高低さがないものの、入り口に散髪屋(パーマ屋)が必ずみられるのは印象的。写真左は旧杉山家住宅の庭園と奥の蔵、右は北口付近。とうとう春休みも終わり。先日、某教授先生からこ
ちとらそんなものはないといわれた。確かに当方にはあったのだが結局締切仕事以外はなにもできず。論文を書いてもという空しさからは抜けられず。本日も自分の仕事すら説明できず、情けない限り。イメージ 1イメージ 2