本日は自治体史の会議と史料閲覧、いろいろ蒙を啓かれる機会に。明後日の講義準備のための表題書もほぼ読了し先ほど片づけ。1771年に流刑地カムチャッカからロシア船奪いを逃亡したハンガリー人によるオランダ商館長宛の手紙から、ロシアの北方進出、さらに西欧の世界進出が認識されるようになり、海防論、中華を相対化し外国に一度も支配されていないという「皇国」論、西欧の「科学」「技術」文明を摂取しようとする動き(近代的な意味として確立されていないのでカッコ書き)などへつながり、日本近代化の土台が固まったとするもの。工藤平助の著作の背景(「加模西葛杜加国風説考」が本来の書名らしい)を理解していなかったので、そこから連鎖的に深まっていく過程は非常に鮮やかで、こうした人的ネットワークに平田篤胤までもが含まれていたというのも興味深い。当方はどうしてもそれがもたらした弱肉強食的な文明観の負の側面に目が行きがちだが、そこまでたどり着けたのも近世日本社会のポテンシャルなのだろう。早速講義資料も修正。