wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

長谷川博史『中世水運と松江』

本日はルーティン姫路。相変わらず往復とも途中停車駅に全く気づかず爆睡していたが、松江で購入していた表題書を読了松江市:暮らしのガイド:刊行物のご案内。ブックレット形式だが、中世荘園年貢輸送体制がもたらした廻船ルートの形成、14~15世紀における日常的交流・物流の拡大、16世紀後半の東アジア経済圏の活況と日常的交流・物流の広域化、という全体の流れを押さえた上で、内海水運と松江城下町の前身となる白潟の成立・発展がわかりやすい文章で説明されていて有益。また主要史料は全文掲載され、内海水運に関する地図、さらに戦国期の白潟の想定復原図まであり、学術的な水準もクリアしており、さすがというところ。なお室町・戦国期の寺院勢力は曹洞宗が中心とのことで、東播磨の内陸部でもみられ、真宗日蓮宗のような派手さはないが、当該期の拡大は目を見張るものがある。

志垣民部著・岸俊光編『内閣調査室秘録』

本日は実家の荷物整理に出かけ、読みさしの電車読書をようやく読了。最初はスルーしていたのだが、いろいろ話題になっているのを見て衝動買いしたもの。著者は東京帝国大学法学部から学徒出陣し、戦後復員して「雇」として文部省に入り、初代内閣官房調査室長村井順に誘われ、学者対策を担当する第五部で活動。その際につけられた日記をもとに委託研究という名目で資金を提供した127名など、その実態が整理されまとめられたもの。歴史関係は岡田英弘木村尚三郎林健太郎といった予想通りの面々で、社会学者・文化人類学者・心理学者が多数みられるのも、何となくそれらの分野をいかがわしく思っていたので、違和感はなかった。また佐々淳行若泉敬らが東大土曜会時代から後援されてきたことや、編者がまとめた原発人脈など、戦後日本の方向性に影響力を持つとともに、大学内では全共闘系の話題がほぼみえず一貫して共産党対策が重要視されていたこともよくわかる。なお著者は「進歩的文化人」が戦争協力をほおかむりしたことに不信感を持ち、いわゆる「左の全体主義」への対抗を使命感としつつ、戦前回帰的な思考は有していないようだ。著者の父と共産党の上田・不破兄弟の父は近しい関係にあったようで、鶴見俊輔GHQのパージ関係の資料を提供し、1978年には55歳で自らの役目は終わったと感じ一線を退いたという。そのあたりが最晩年になって情報を開示したことにもつながるのだろうが、組織的にも強大化した内閣情報調査室は現在はどのような活動を行っているのだろうか。内閣調査室秘録 戦後思想を動かした男 (文春新書)

なお書庫設営のため本引っ越しは年末になりそうだが、実家売買を依頼していることもあって、最低限のものを選んで来週新居へ移すことになる。ただ10年ほど前に大々的に処分をしたらしく、子供の時にみた記憶のある母の若いときの記録・写真、少し高めの皿や漆器などは全く見当たらなかった。さんざん当方は何も引き継がないので自分で死亡届を出して、一切あの世に持って行ってくれと言い続けていたためだろう。さすがに当方が生まれてからのアルバム類は残されており、少し迷ったがそれは残すことにした。

藤原彰『中国戦線従軍記』

本日は宍粟市で講演会。しゃべりが下手な上に時間配分もうまくいかずあたふたしたものになったが、何とか終える。お付き合いいただいた方々に感謝申し上げます。自宅から地下鉄と高速バスを乗り継いで3時間弱かかることもあり、読みさしの表題書を読了。日中戦争はいくつかの講義で取り上げており、文庫化されるに当たって著者の戦後の自伝も掲載されていることもあって、衝動買いしていたもの。職業軍人を父とし、文学・映画にもはまったものの、一高入試に自信が持てず、陸軍士官学校に入った著者が、1941年7月から華北の警備隊に配属され、44年3月からは大陸打通作戦に中隊長として従軍、45年5月からは姫路の決戦師団大隊長として敗戦を迎えた。とりわけ中国戦線では補給軽視・装備不足のなかで前線を転戦したため、掠奪・栄養失調史など生々しい実態が記されているが、生真面目だったため慰安所は全く実体験していないようで(存在は当然認識している)、そこは残念。ただ体験と専門家としての軍事情勢が整理されているため、幅広い読者に読みやすいものになっている。また敗戦後に東大に入学して、『中世的世界の形成』にひかれて中世史をこころざし百合文書を読めるようになっていたが、石母田本人から現代史をやれといわれて転身。歴研事務局で働くも非主流派として追われ(かつて共産党地下工作で軍人経験者として指導的地位にあったという話を聞いたことがあったが、全くの誤りで逆の立場だったらしい)、非常勤をしながら『昭和史』などの著述活動で生活しており、反対もあったが一橋に70年対策で採用されたことなど、戦後の歩みも興味深く、いろいろと得るところが多かった。中国戦線従軍記: 歴史家の体験した戦場 (岩波現代文庫)

中世都市研究会編『港津と権力』

表題書所収の「徳島大会全体討論」444~445頁に発言が掲載されており、校正も一度しているため記録に残しておく。はからずも中世都市研究会はこれで休会することとなり、最後にわずかに当方の名前が出たことになる。同会は網野善彦石井進・大三輪龍彦氏を顧問として1993年4月に西宮・大手前女子大学で第1回の研究会が開かれたのが最初とのこと。ただ当方は博士課程に在籍していたが、そのころはある程度距離を置いていたこともあり、そもそも開催自体があまり印象に残っていない。その後の研究会は9月初旬に実施されていたように記憶しているが、高校非常勤の関係もあって全く参加しておらず、2004年の鎌倉が恐らく最初で、その時にはすでに最初の顧問の方々はお亡くなりになっていたはず。その後は2005年京都・2006年津・2010年平泉・2012年大阪・2015年上越・2016年奈良(なぜかこれだけ総括文書には記されていない)と関東以外では一部もしくは全日参加し、最後が昨年の徳島になり、それ以前からの縁で発言を求められた次第。思えばこのような学際的をうたった研究自体が、完全に下火になり、山梨もすでに中止され形態が変わっている。まだまだやることは残されているはずなのだが、一過性のブームに終わってしまったのはやはり残念。なお当方はこれらを横目に見ながら遅々とした歩みを進め、最後に少しだけでも形に残ったのは、後世に日本史学史がされるのかは別にして一応の意味は見出しておく。港津と権力

*追記:当方の所属が博物館になっていますが、博物館に付設されている研究室で、学芸業務は一切行っていません。

貴堂嘉之『南北戦争の時代』

本日は再来年度刊行予定の市史史料編の会議で三木へ。当方の担当部分がもっとも遅れており、本年度後半の大きな仕事。なおお隣の歴史資料館では企画展「細川・口吉川の遺跡」が開催されており、中世の遺物も展示されているので(備前だけでなく丹波大甕が出土するのはこの地ならでは)、関心のある方はどうぞみき歴史資料館 - 三木市ホームページ。現住地からは電車で片道二時間以上かかるため、電車読書も進みそちらの備忘も少し。これまた後期の講義に向けて衝動買いしていたもの。19世紀の合衆国史について南北戦争の背景と顛末を軸にしながら、「奴隷国家」から「移民国家」への転換という著者のシェーマに沿って概観したもの。全くの不勉強だったが、男子普通選挙権の早期の実現がヨーロッパと異なり、社会主義運動が発展せず不人気で、労働運動も強権的に弾圧され、その過程を通じて帝国主義的な国家が成立したこと、戦争直後は黒人投票率が90%以上で、それが共和党急進派を支えていたが、「再建の時代」が「未完の革命」に終わり、1890年代には年間1000人以上の黒人がリンチで殺害されていたこと、戦争の戦死者は絶対数でも国民比でも第二次大戦より高く、国家建設・国民創造の起点になり、その記憶はトランプ政権支持者の南軍旗のシンボル化まで引き継がれ、戦争モニュメントの是非が争点になっていること、などいろいろと勉強になり図表も豊富。ただ図像は新書では小さすぎてスキャンしてもわかりにくいのは難点南北戦争の時代 19世紀 (岩波新書)

キャロル・グラック『戦争の記憶』

本日は富田林の法務局で実家相続完了の書類を受け取り、大阪高裁で組合にかかわる裁判を傍聴http://www.hijokin.org/。後者は今のところこちらが優勢だがどうなることやら。そういうわけで近現代史を教養課程で扱う身として衝動買いしていた表題書を読了。コロンビア大学歴史学教授である著者が、2017年11月から18年2月にかけて実施したさまざまなルーツ(日本・韓国・中国・インドネシア・カナダ・アメリカ)をもつ学生が自主的に参加した4回の対話形式による特別講義をもとに編まれたもの。テーマは「パール・ハーバー」・「共通の記憶」を探すための場所・「慰安婦」・第二次大戦の記憶と責任で、出席者それぞれに発言を求め、そこから記憶の形成のされ方、その政治力学について議論を展開させ、著者が最後に総括するという形式。いかにもアメリカ的ではあるが、細かい史実は省略されているため、問題の本質を理解していない読者には勧められないのは難点。戦争の記憶 コロンビア大学特別講義 学生との対話 (講談社現代新書)

植村邦彦『隠された奴隷制』

本日は本契約。仲介業者のところに売主・司法書士が集まり、署名捺印を取り交わした後に、七人連れだってぞろぞろと銀行に向かい、窓口で振り込み、相手側が確認した段階で、領収書と鍵が渡され一同解散。これまた二度と見ることのない風景。そんなわけで山陰でほとんどすすまなかった表題書をようやく読了。これまた後期の講義の関係で何となく気になって衝動買いしていたもの隠された奴隷制 (集英社新書)。タイトルは『資本論』の「一般に、ヨーロッパにおける賃金労働者の隠された奴隷制は、新世界での文句なしの奴隷制を踏み台として必要としたのである」という文章からとられたもの。ロック・モンテスキュー段階で肯定されていた奴隷貿易が、政治的自由から次第に批判されつつも、スミス・ヘーゲルが「私的所有の自由」を絶対視したのに対して、マルクスは労働者の「自由な自己決定という意識」そのものの欺瞞性を明らかにし、それを見抜くためには労働者に「並外れた意識」が必要だとしたという。それに対して福祉国家から決別した新自由主義は、労働者に「自律」と「自己責任」を求め、とりわけ日本では過労死に象徴される「強制された自発性」が極限まで進行したとする。その対抗原理としては、逃亡奴隷・東南アジア産地のゾミアのような国家的支配や強制的な労働から逃れることの重要性が説かれ、相手の行為に対して「対価」を求めない「コミュニズム」を原理とする「協同組合的ネットワーク社会」こそが資本主義の終焉を生きる現在の明るい未来として措定されている。奴隷制と資本主義の関係を原理的に説明したものとしてはわかりやすく感じた。ただ極限まで分業化された現代社会を脱出して自給自足的になるというのは原理的にはわかるのだが、それを維持したままの明るい未来についてはなかなか想像がつきにくいところ。当方も結局は金銭によって安息の地を得た次第…。