一ノ瀬俊也『飛行機の戦争1914-1945』
本日から枚方での講義再開。京阪特急に導入されたプレミアム車両(有料)の表示が駅になく、いつも乗る位置になっていたため焦ったが何とか座席を確保。京阪バスの回数カードもなくなるとのことで、益々貧乏・非正規には行きにくい世の中に。講義は昨年の不評もあってやや少なめだが、それでも結構な人数でミニッツペーパー整理には結構な時間がかかる見通し(本日は手を付けられておらず)。そんな中、徳島で読み残した表題書を読了。著者の冷めた目の軍事史についてはそれなりに目を通してきたが、久しぶりに衝動買いしたものhttp://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062884389。よく言われる日本海軍の「大艦巨砲主義」・「航空戦力軽視」という言説が、史実とはほど遠いものであったことを、軍関係者・民間の架空戦記物などを通じて説明、日本海軍も大正末期から「制空権下の艦隊決戦」が構想されており、すでに軍事上からは有効と見なされないにもかかわらず戦艦が重視されていたのは米軍も変わらず(むしろ豊かな米軍を批判する言説として「大艦巨砲主義」が用いられていた)、国民自身も航空戦力の重要性を理解する「軍事リテラシー」を有していたからこそ、航空特攻も受け入れられていったとし、戦後の思想転換の結果として「大艦巨砲主義」を位置づけ、歴史学者もそれに影響されていたと指摘したもの。全体の骨子としては納得できるものだが、著者の問が「対外戦争を支えたのは軍なのか、国民なのか、あるいはその両方なのか」であるため、軍内部の具体的な動向(海軍内で航空派と艦隊派があったことは周知の事実)、天皇・軍需系財閥・技術的問題など国家体制全体が捨象されているため、やや一面的な議論が展開されているような印象を持つ。また国民への宣伝での航空戦力アピール言説の多くは本土防御での必要性を訴えたもので、日本からの攻撃により始まったという現実に展開した戦争とのズレがほったらかしにされている点も気になるところ。なお特攻戦術という無駄花で終わったというのも、航空機が「戦力」として戦後の歴史学者に重視されなかった要因の一つだったのではないか。