wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師・研究員などとして生活の糧を得ていますが、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

海部

ひょんな縁で今年度の地方史研究協議会大会で阿波材木について報告することになりhttp://chihoshi.jp/?cat=6、日曜日が報告者全員が集まったプレ大会。依頼を受けて準備をする中でどうしても気になったのが海部。「兵庫北関入船納帳」(報告の主題は当該史料の相対化で、地元の方には大きな違和感を持たれたままなのだが…)で、尾道牛窓の並び都市内部の小地名が登場し、かなりの規模の都市という印象を持ったためである。ここに記したように八月に連れていただく計画があったのだが、台風直撃で徳島から泣く泣く撤退。またまた台風接近の中で、土曜日朝の室戸岬行き高速バスに五時間揺られてようやく到着(学部時代に岡山から麻雀終了後に夜間弾丸ドライブで室戸岬を往復したのが、恐ろしく無謀なことだったのだと改めて実感)。国道から小さな峠を越えると、そこには隙間なく家屋が密集し、廻の高台を寺院が占地するというまさに中世という印象の湊町鞆(入船納帳にも登場する地名)が出現、苦労してきた甲斐があったというもの。残念ながら雨は降り続き、避難所開設を伝える町内放送が流れていたため、海部城跡・愛宕山などに登ることはできなかったが、中世に遡る石造物(これはすでに情報を得ていた)も少しは確認することができ、これまで全国的に取り上げられていないのがおかしいぐらい。もちろん度重なる南海地震による被害、道の狭隘さから見て火災にも恐ろしく弱い条件で(近世に全焼という記録あり)、なかなか中世の実像に迫るのは難しいのだが、もう少し周知されるべきだろう。なお「入船納帳」には奥浦(こちらは商店・宿があり近世以降の中心と考えられる)・赤松(地元に地名は残るようだが詳細は不明)が他に確認され、現地にはそれと別に新町集落もあり、複合的な様相が確認できる。雨のなか数キロ歩いてたどり着いた海陽町立博物館にはhttp://www.town.kaiyo.lg.jp/docs/2017052000016/、14世紀後半の備前大瓶に納められた7万枚の銭・海部川をやや遡ったところが中心だったという海部刀(鉄は現地で生産されず移入品だったらしい)に関する展示があり、それも合わせて非常に魅力的な地域といえる。なおプレ大会は何とか終わったが、台風直撃で帰れず昨晩はホテルで缶詰になり、今朝県立図書館でいくつかの文献をコピーしてようやく帰阪。本当は宍喰・牟岐なども廻りたいのだが、海部再訪と合わせていつかのお楽しみか。写真左は北町善称寺山から東町法華寺側を臨んだもの。右は慶長・宝永地震津波碑。イメージ 1イメージ 2