wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

倉橋耕平『歴史修正主義とサブカルチャー』

本日はルーティン姫路。昨晩2:00に目が覚めて考え事をしてしまったこともあって何度も睡魔に襲われたが、何とか業務を終える。そんななか電車読書のほうは発売前から話題になっており衝動買いしていた表題書をようやく読了https://www.seikyusha.co.jp/bd/isbn/9784787234322/。メディア文化論の立場から、1990年代の歴史修正主義の言説が、専門家を無視した「アマチュアリズム」で同じ主張を繰り返すことで集合知の枠組みを共有・強化したこと、商業メディア文化を媒介とすることで、専門家の評価ではなく消費者の評価が重視されるビジネスとしての政治言説が流通したこと、ディベートの隆盛と相まってとるに足らない言説があたかも有力な見解の一つとみなされたこと、読者投稿を積極的に取り上げることで「参加型文化」「想像の読者共同体」をつくり出したこと、事実を無視して特定のメディア(「朝日新聞」)と敵対することで反対者の票を集め、売り上げを意識した企画が構成されたことなどの手法=メディア論では「コンバージェンス文化」と呼ぶらしい=を明らかにし、2000年代のインターネット時代とともによりそれが劣化・加速していったとし、それに対抗するには「間違っている」という理性的判断でも、「バカだ」という感情的判断でもなく、他者を気にかける情念の能力に基づく「反省」から始めることが求められていると、締めくくられる。当方は90年代にすでに20代後半で高校の教壇にも立っていたため、当該期のサブカル文化の影響は全く受けていない。「国民国家」論批判にみられる余りにも楽観的な展望にも違和感は感じていたが、まさか2000年代の日本の思想状況がこのようなものになるとは予想できていなかった。著者の分析はメカニズムとしては理解できるのだが、どうしてそうなってしまったのかはまだわからないまま(これは陰謀論でも解けないだろう)。長らく接してきた実際の学生の多くは健全な思想にみえ、どうしてこういうことになってしまったのだろうか。「反省」するしかないのだろうか。とりあえず日本抜きでも東アジアに緊張緩和が訪れればせめてもの救いか。なお各章は研究史・方法を提示するという論文スタイルをとっているが、巻末に初出論文は全く明記されておらず、その点はやや疑問。