wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

現代思想臨時増刊号『安保法案を問う』

9月6日のデモに行く前に購入し、読み止しの新書から切り替えて、土曜日の合宿に向かう電車内で読了したものhttp://www.seidosha.co.jp/index.php?9784791713059。43人の論者が8月15日締め切りで提出したものらしく(何人かが最後に「安倍談話」について言及していた)、原稿も短いため時評的様相が強いが、それぞれの立場から危機感と展望が語られていた。日本史の専門家を名乗っているのは一人だけ(これは現状の反映)、国際政治論は皆無、逆に雑誌の性格からか精神分析的方法の論者が何人も見られ、90年代の政治学における議論も総括できていないように思えた(そもそも英米でも機能していたように見えない小選挙区制の導入で「政治改革」が実現できるという楽観論など)など不満もあるが、運動の先頭に立つSEALDs・SADLメンバーのものは読みごたえがある。その個人的体験の重みや、それでいて地に足をつけて、混迷した状況を突き抜けていく姿勢は、金曜日に聞いたSEALDsKANSAIの10人によるスピーチからも共通して感じたところ。その一方で各地の担い手にはマイノリティー出身者が目立つ一方で、旧帝大所属がほとんど見かけられないところが特徴的に思える。すでに中学受験を契機とした階級分化は社会に定着しているように思われ(都市部の公立中学校が軒並み育鵬社になったのも、首長の強権とともに保護者の「無関心」に支えられたことは否めない)、「受験エリート」とは別のところから出てきた担い手たちをこの世代の中心とみなすことができるのかはまだわからない。金曜日の演説もすでに採決目前となっていた法案の行方とは別に、「民主主義」への楽観が語られていたが、当方はたまたまお会いした某研究者に酒席で悲観論を語っていた。国会審議を見れば完全に破たんしていた法が強行されたことにより権力がよりエスカレートする可能性。それを提灯持ちした報道機関が通過したからと言ってその姿勢を変えるわけではなく、多くの国民は深刻には受け止めないと思われること。90年代以降の「国民国家」論批判・言説論的転回の影響を受け相対主義に立つ研究者・院生・学生も冷めたままであること、などがその理由である。束の間の桃源郷から帰ってきて、初めて共産党が大胆な「戦争法廃止の国民連合政権」構想を打ち出したことを知る。恐らくいろいろな意味で最後になるだろうチャンスが前向きに展開することを望むばかりである。やはり熱を出して寝込んでしまったが、これだけは書き留めておく。写真は11日夜の梅田での宣伝カー裏。イメージ 1