wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

木村茂光『頼朝と街道』

土日は鼻水は治まったが発熱が続き、10月末の締切原稿に手をつけることができないまま新しい週に突入。そんな状況だが、原稿とも関わるため頭の整理をかねて電車読書の備忘http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b243596.html。2000年代に幾人かの論者が提唱した鎌倉=平安期からの交通の要衝論に対して、奥州藤原氏の平泉を東日本の物流の中心として高く評価し、陸路としては東山道ルートこそがメインであったとする。そういうなかで頼朝の挙兵以後の軍事行動が、関東の西の境界・江戸湾岸・南常陸を押さえ、奥州藤原氏を滅亡させることで、その中心性を鎌倉に引き寄せるものだったとする。その上で富士の巻き狩り、二度の上洛で東山道東海道の整備を進め、13世紀半ばにようやく首都鎌倉が確立するとみなす。近年の研究をちゃんとフォローできておらず土地勘もないため(富士川合戦後の頼朝が、上総介広常など東国武士の「神輿」でなく主体性をもって行動しているという研究が主流になっているというのは初めて知った…)、ちゃんとした評価はできないが、全体の方向性としてはありうる議論のようには感じる。ちょうど本日の講義でも熊野詣と交通路の整備の関係について取り上げたが、権力者の移動の重要性については納得できるところ。ただその点では二所詣には触れて欲しかった気がする。また言わずもがなながら同じ文章の繰り返しがやや気になるところ。