本日、次エントリーのついでに観覧。万博記念公園駅はそこそこの人出で案内標識も明確ではなく、迷いながらたどり着く。企画を知った段階で観ておく必要があるとは思いながら、予想通りの環境に調和した焼畑路線。五木村の現状、映像記録、再現された木おろし(枝打ちのために木と木との間に竹をかけ渡るもの)など興味深く、近世文書の「火」へんではなく、「火」かまえのなかに「田」と記す文字表記、「梶原領」・「地頭畑所」・「百姓畑所」などの区分(図では「地頭」「百姓」の入会が示されるが文書は不明)も勉強になった。ただ畑作循環だけで薪が全く出てこない。戦国末から都市部に電力が普及するまで焼畑村落が広範に展開したのは、都市部で大量の薪需要があったからこそで(近世大坂は土佐・日向が主産地)、四国山地などは中世の皆伐のあと、林業地域と焼畑地域に分離したと想定される。佐々木氏が五木に入ったのは1959~60年のことのようで、民俗(民族)学者の焼畑論は、薪の大量供給が途絶して拡大造林が開始されてから調査が行われ、弥生水田耕作・柳田民俗学のアンチ・テーゼの意味を持たされ、近年の「山村」研究者もそれを継承。マルクス主義ではないので戦後歴史学のように批判の対象にならないが、こちらも大問題。