本日は以前に『夜久野町史』を執筆した関係で、兵庫県丹波市某所で実施された講座「丹波学」戦国の世と丹波Ⅱー光秀と丹波ーへ出かける。受講希望者は200名を越える盛況ということだったが、当方はテーマとは場違いの南北朝で、しかも大河ドラマ監修者を筆頭ととするその後の有名講師とは異なり、その上に周辺は無事だったとは言え被災地(特急運転再開も27日からで、帰路も10分遅れで運行されていた)ということもあって、150名程度か。相変わらずギャグ一つない話しにおつきあいいただきありがとうございました。終了後は電車出発まで時間があったこともあり、最寄り駅である柏原(大阪府の「かしわら」ではなく「かいばら」と呼称)周辺を散策する。当地は延久の官宣旨で石清水八幡宮領「栢原別宮」として見え、八幡宮下には古市場公民館が立地していることから、戦国期までには町場化していたと思われる。近世には織田家陣屋が営まれ290軒ほどの町屋があったといい、歴史民俗資料館に展示されていた17世紀後半の絵図によると、八幡宮以外の山はすべて「草山」表記になっており開発が進むのも早かったと思われる。近世のたたずまいもよく残り、いろいろ整備もされているが、数名の観光客を見かけただけだったのは残念。写真左は正徳4年造営の長屋門。写真右手前は八幡宮社殿で明智の丹波攻めで焼失し豊臣期に建立されたという。奥に最上層だけが見える三重塔がセットで残存している点も貴重。