wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

京都文化博物館「よみがえる承久の乱」

本日は京都北山へ。昨日さる必要があって探し回ったコピーが出てこず、中之島は耐震工事で書庫内資料が利用停止のため(ただ今回必要な部分はそもそもコピーをとっていなかった部分だったことが判明)。他にも行方不明のものがあり、引っ越しの際に誤って処分してしまったのかもしれない。ただせっかくの京都なので昨日開会した表題の展覧会を観覧。一時行方不明となり再発見された「承久記絵巻」(17世紀のもので天皇は全く描かれず)を中心に、保元・平治から、後鳥羽関係の諸史料、鎌倉幕府関係、乱後のものとして山内首藤文書・東寺百合文書がまとまって展示。近世まであちこちの寺院にあった天皇肖像画廃仏毀釈後に泉湧寺に集められていること、室町成立の「平家物語屏風」、隠岐で後鳥羽が編んだらしい「時代不同歌合絵」、「天子御影」・「大臣御影」の16世紀の模写、室町の「吾妻鏡」写本などいろいろ拝ませてもらう。もっとも興味深かったのが「承久三、四年日次記残闕」で、連続しない断簡に漢数字が付されていること、紙継目に記事より大きな文字が割書されていること(残画のみのため文字は判読できず)、紙背・墨痕の存在などいろいろ気になるところが多い。パネルに部外者の名前があり不審に思っていたが、展示企画者を中心とした東大史料の共同研究が母体となっているらしく、きっちりした報告書を出してほしいところ。ただ文書そのものは立派なものとはいえ、なぜ山内首藤で南北朝まで引っ張ったのかはなぞ。承久の乱をタイトルにするなら六波羅探題などをちゃんと取り上げるべきではなかったか。なお総合展示で「伝えるー災害の記憶展」として同和火災海上保険の廣瀬鉞太郎氏が収集したという近世・近代の火災・津波地震などの災害史料145点(展示替えあり)が並べられ、速報・修正瓦版、京・大坂などの近世・近代大火の広がりを一枚にまとめたもの、信州大地震の報告文書を印刷に仕立てたもの、ナマズに責任を追及する人々と復興需要で儲かる職人たちなど、印刷媒体を通じて当時の災害意識を読み取ることができる興味深いもので、図録も作成されていた。こちらは思わぬ大収穫。人出はチラホラ。

京都府京都文化博物館

 

『10の「感染症」からよむ世界史』

本日はルーティン姫路、昨日と比べるとかなり人出は減った感覚、こちらも出勤半減が奨励されており、当方も来週は在宅。またまた回数券の消化を危惧する状況に、例の問題も含めて落ち着かない日々が続く。それでも電車読書はこの二日で進み、衝動買いしていた表題書を読了。いわゆるコロナ本で、編者は造事務所という見慣れないところだが、植民地インド史の感染症研究者として知られる脇村孝平氏が監修者だったため、目にとまったもの。ペスト・インフルエンザ・コレラマラリア赤痢結核天然痘・黄熱・チフス・梅毒が取り上げられ、発生・拡大・日本との関わり・現状がまとめられており、わかりやすい。とりわけモンゴル・「新大陸」発見・植民地化・世界大戦といったグローバル・ヒストリーとの関係について重点が置かれており、先になるが来年度のシラバスには参考文献(いちおう図書館が購入してくれることになる)に取り上げたい。なお梅毒は14世紀のオーストリアの人骨から発見されたことにより、アメリカ大陸起源説より太古存在説が有力になっているとのこと。「コロンの交換」の眉唾と思っていた感覚は間違っていなかったようで、フッガー家が偽薬を販売する過程で流布したらしい。星新一マラリア特効薬キニーネを台湾統治にあわせて生産して利益を上げた星製薬の二代目社長だったというのも初めて知った(経営悪化で大谷家に譲渡した後に創作活動に転じたらしい)。

https://nikkeibook.nikkeibp.co.jp/item-detail/19993

倉地克直『江戸時代の瀬戸内交通』

本日は某所の文化財審議委員を拝命したためその会議で出かける。もとからの知り合いが含まれるとはいえ、文献史を代表するのは場違いな感が否めない。ただ帰路は民俗学の方とご一緒させていただきいろいろ勉強になった。また積ん読だった表題書も読了。「御留帳御船手帳」という岡山藩による海事行政の記録が延宝元年から貞享三年まで残されており、それをもとに海難事故・物流について示したもの。17世紀でも冬の日本海航行は避けられていたこと、台風による多数の遭難、播磨での海難事故の多さ、船数で多数を占める流動的で場当たり的な中・小型船が瀬戸内海の物流を支えていた事実、事故発生時の積み荷の刎ね捨てを見届けるという上乗りの役割・船宿の仲介・残存した積み荷の売却・船主と荷主が共同で損害補償する「分散仕法」など慣行、瀬戸内海を行き交う薪船と牛窓商人による日向・土佐での請山など、中世を考える上で参考になる事例が多数紹介されており勉強になった。天草・八代から材木が積み出されていたのも意外(中世には中国向けか)。

江戸時代の瀬戸内海交通 - 株式会社 吉川弘文館 安政4年(1857)創業、歴史学中心の人文書出版社

佐藤千登勢『フランクリン・ローズヴェルト』

昨日記したように、朝をゆっくりすると通勤は読書時間になるため、積ん読だった表題書はあっさり読了。これまた講義がらみもあって衝動買いしていたもの。生い立ち(母の過干渉を受け流し内面の感情を押し殺した人格形成)・裕福なエリートとしての生活スタイル(祖先はオランダ移民で砂糖商人として富、遠く分かれたセオドアの姪を妻に、幼少期は家庭教師に学び夏はヨーロッパでバカンス、14歳から寄宿学校、腰掛け弁護士)・女性関係(妻との仲は冷え切っており、ポリオ罹患後も愛人をもつ)などオーソドックスな伝記の一方で、ニューディールジェンダーなどを研究していたという著者らしくアメリカ社会の構造と変化を追いながら、理念よりも諸勢力への政治的配慮を優先させた一方で、ラジオ演説など国民に直接語りかけ四選を果たした大統領としての歩みを示しており、世界恐慌から第二次大戦に至る経過について従来の知識を整理する上で大変勉強になった。もっと学者と近い人という誤解を抱いていたが、そうした名前はいっさい取り上げられず(ブレーンも信頼できる「友人」)、良くも悪くも「白人エリート政治家」というべき人物だったのだろう。それでも近衛とは大違いか。

フランクリン・ローズヴェルト|新書|中央公論新社

 

姫路城

本日はルーティン姫路、ただ3月はじめに計算違いで1時間休をとってしまったため、6時間30分余らす羽目に(とっていなければ余り30分を今年度中に取り、1日を次年度に繰り越しできた)。仕方ないので本日4時間・明日1時間(業務を残しているため2時間半は捨てるしかない)を消化することに。そういうわけで中学生以来およそ40年ぶりに有料ゾーンへ登る。小雨交じりの平日だったが、春休み中の若者・家族連れでそこそこの賑わい。ただ天守はもちろんのこと、残りの良さ、郭の複雑さを実感、惣構の土手が残されているところもあわせて世界遺産になるだけの価値はある。また複雑な構造を逆手にとった順路設定もさすが。

f:id:wsfpq577:20210325223414j:plain

天守に向かう道程

f:id:wsfpq577:20210325222804j:plain

西の丸百間廊下からみる天守

f:id:wsfpq577:20210325224015j:plain

三国堀をはさんだ天守と多層の石垣

 

小山束『和算』

本日所用でほぼ読了した表題書の備忘。少し迷ってから衝動買いしていたもの。『塵劫記』を前史として関孝和による確立、高弟として兄賢明とともに関の著書をまとめ家宣・家継・吉宗に仕えた建部賢弘、流派としての特徴と発展、実用・趣味・師匠という三階層による受容と算額という文化、円周率・平面幾何学の発展の一方で物理学などとは連動しておらず証明ではなく帰納的に結果を推測するという方法論、明治初期の漢字による旧数学から西洋の新数学への切替をめぐる諸相、中国の数学の発展、と全体像が俯瞰でき勉強になった。数学もある種の芸能の一種として発展し(享受の三層構造)、「民間の学」だったため知的な土壌の広がりをもつ一方で、明治政府があっさり西洋数学に切り替えることが可能になったというのも興味深いところ。ただこちらが期待していた中世との対比、中国からの影響(そもそも算盤はいつ広がったのか)などが明確に述べられていなかったのは残念。このあたりは禅宗史の最新書に期待すべきか。先週JABEEの要求が届く。遠隔のためいつにも増しての作業量に途方に暮れている。論文集はまた先送りか・・・。

和算|全集・その他|中央公論新社

南阿波の港町

昨日・本日と諸氏のお世話になり踏査。港町について、真言宗一色の阿波全体の傾向と異なり、浄土宗・浄土真宗本願寺派曹洞宗などの寺院構成、砂州と町形成、海城の存在など、現地を案内していただき大変勉強になった。ありがとうございました。

f:id:wsfpq577:20210315222341j:plain

宍喰愛宕城跡から海方向に広がる町

f:id:wsfpq577:20210315222804j:plain

海部鞆浦津波

f:id:wsfpq577:20210315223248j:plain

牟岐城跡から牟岐浦を臨む

f:id:wsfpq577:20210315223501j:plain

由岐城跡から西由岐を臨む

f:id:wsfpq577:20210315223730j:plain

椿泊街路