wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

野村剛史『日本語「標準形」の歴史』

本日も家捜し。書庫設営に問題がなければ、来週末に契約予定、詳細はそこで…。そんなわけで衝動買いしていた電車読書の備忘https://http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000323222。「標準形」はスタンダードとルビがふられ、明治の「標準語」制定以前にすでに規範性をもった大系が成立していたとの意味。先ず話し言葉について、室町期に標準形としてのミヤコ言葉が成立しており、江戸幕府の成立により上方・江戸の楕円形となり、明治期にスタンダードがもとに山の手東京語をつくったとするもので、これはすでに著者の以前の著書でも触れられ、日本通史の桜井論文でも高く評価されていた。次いで書き言葉について、『今昔』では「居ル」「有ル」などの現代に連なる口語体の形式がみられるにもかかわらず、その後は見られなくなることから、院政・鎌倉期に口語体と文語体(漢文訓読体)が分離したとする。従来訓読体は「和漢混淆」と評されるが、「混淆」の語義からいうと間違っており和文の一種とすべきで、古い日記文体である「記録体」こそが「混淆」・「クレオール」であり、権威語(漢文)の話者が少ないため、書き言葉としてのみ成立し、それを母体として書き言葉としての訓読体が展開し、広い識字層が実現した室町期にスタンダードが成立したとする。最後に表記について、古代の音韻が10・11世紀に現代と同じになり(「じ」と「ぢ」の同一化は室町期)、音的に違いがなくなり、一般書では頓着せずに用いられているにも関わらず、定家仮名遣いが国学者に継承され、「教育勅語」・「大日本帝国憲法」など明治欽定仮名遣いとなったが、そこには活字印刷の普及による統一化・標準化がはたらいていたと評価される。専門分野から見ると、カタカナが音と結びつくのが江戸時代とするのは、問注記がカタカナ表記化する点が全く無視されている、平仮名文書に漢語(てはく=田畠…)が用いられているのは「漢語使用⇔文化的先進」という一種の想念ではなく、文書が読み上げられたためなど、問題点もなくはないのが、日本語史における中世の意味をいろいろ考える機会となった点で有益。

藤澤房俊『地中海の十字路=シチリアの歴史』

本日は千里山の定期試験、教養181+留学生2、史料講読12、例年ほどではないにしろ採点は大変。そんな中で読了したのが、秋の講義のこともあって衝動買いしてしまっていた表題書https://http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000323091ギリシア・ローマ時代から第二次大戦後までのシチリア通史で、ローマ・イスラーム・ノルマン人支配と展開し、ノルマンによるシチリア王国を栄光の時代とし、その後のフランス・スペイン系王家の支配と、大航海時代以降の地中海交通の衰退期を「長くて、深い眠り」と評価し。統一イタリアにおける果たした役割にも関わらず経済的には「植民地化」されたと認識され、マフィアの成長、ファシズム体制との微妙な関係、解放期の独立運動が反動と化し、特別自治州としての位置と公共投資も大きな成果が上がることなく、逆に「北部」が「独立」を志向している現在までが概観される。一通りの知識は得られるのだが、ある段階まで農業生産力が高く評価されているのに、風土としては「火の雪が降る」夏の苛酷さが強調され、貴族支配の強固さが、ある段階からマフィアに変わるなど、個別の政治支配ではなく全体として社会がどのように展開してきたのかが、いまいち理解しにくかったのが残念…。

角田徳幸『たたら製鉄の歴史』

本日は枚方3コマ、明日の中百舌鳥からは試験となるので春の講義はこれで終了。そんななかで電車読書の備忘。業務の関係で何度かお目にかかっている、考古学をベースとした当該分野の第一人者の著作https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b450623.html。古代以来の製鉄遺跡の遺構分析からたたら製鉄の諸要素の成立過程を明らかにし、そのうえで文献史料が豊富な近世たたらについて、その生産方式・たたら場の構造・金子屋信仰に触れ、流通の利便をはかった海のたたらと、山砂鉄の採取を重視した山のたたらを紹介、さらに幕末以降の鉄生産とたたらの盛衰と最後まで生き残った特殊鋼と軍刀用の靖国たたらに触れた上で、東アジアの主流である鉄鉱石利用を周辺で展開した砂鉄利用が独特な技術発展したのがたたら製鉄であると締めくくられる。単著『たたら吹製鉄の成立と展開』をベースにしながら、その全史をわかりやすい文章で叙述されており格好な入門書。ただ当方もかかわった本年三月刊行の紀要で、著者が主張する銑鉄のための銑押しから鋼をも産出する鉧押しが展開したという山陰モデルに対して、播磨では鉧押しが先行した可能性を提起した点に触れられなかった点は残念、八月にお目にかかる機会があるのでご意見をうかがいたいところ。そのため分類も読書(日本中世)にした次第。新居のほうはせっかく決断したらすでに買い手が入ったとの応答、今のところ第二候補になりそうだが、こちらも土曜日まで持つのだろうか。同一物件をいくつもの業者が販売を共有しているらしく、夜の周辺散策なしに一見で決めるのは余りにも危険でなかなか難しいところ…。

古田和子編著『都市から学ぶアジア経済史』

明日は選挙だが、本日も「日常」を求めての家捜し。駅近で広い・閑静で格安の二物件で迷いどころ、とりあえず来週の仕事帰りに夜の雰囲気を確認することに。そんなわけで先日書店で衝動買いしてしまっていた表題書を読了www.keio-up.co.jp/np/isbn/9784766425970/。 タイトルと蘇州・ブネー(インド)・バタヴィアシンガポール・登州(山東半島)・上海・長崎と高島炭鉱・香港・台南・羅津(朝鮮北部)・深圳バンコクホーチミンと12本の論考(カッコがあるのは当方のイメージが全くなかったところ)で2000円と格安なのに惹かれたもの。ただし岸本美緒氏を除くと経済学系の研究者による執筆のため、統計は多用されるが、地図がほとんどないことに代表されるように、当方の関心とはややずれがあり、講義に有用な資料も得られなかった。なかには個別論文としかいいようのないものもあったが、高島炭鉱をめぐる三井・三菱が福澤や政治家を巻き込んだ駆け引きは興味深く、選挙がなく政治家による個別要求にこたえる必要がない帝国日本の植民地官僚による経済開発の実態も勉強になった。

兵庫県立歴史博物館「へんがおの世界」

本日はルーティン姫路、間近に迫った破綻の前の「日常」を本日も無事終える…。ということで昼休みに観覧した夏の特別企画展の紹介https://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/official/ex-2019-pl1.html。主な展示品は近世から明治にかけての浮世絵などにみえる特徴的な顔の形状と、おなじみの玩具コレクションからお面や福笑い系をセレクトし、館蔵の妖怪関係を加えたもの。外国人向けお土産用の神戸人形は初めて知ったし、「陣中御慰問 朗らか笑慰弾」を標榜する「お笑ひゲーム」などというのもあり、毎度ながら「今」と変わらない戦中のノリにも驚かされるばかり。なお担当は一昨年に新採で入った中世美術専攻の若手で、密かに「福富草紙」・鎌倉の重文涅槃図も展示。また無料観覧エリアである一階の歴史工房とあわせて平安仏も数点出品され、同所では「近世庶民女性と文字」という書状など20点ほどの展示も興味深いもの。例によってチケットは持ち歩いていますので、面識のある方はお声がけください。

古澤拓郎『ホモ・サピエンスの15万年』

本日は新居に向けて物件巡り。やはり予算事情もあって、ただちにこれこそはというものは見当たらず、とりあえず次回のアポを取りもう少し検討することに。そういうこともあり後期の講義関係で先日衝動買いしていた表題書を読了https://www.minervashobo.co.jp/book/b431739.html。著者はもともと南太平洋をフィールドとする人類生態学者らしく、人類の多様性を男女といった概念に見られる二分法ではなく、連続体(スペクトラム)というエマ・ワトソンも演説で用いた用語をキー概念とし、全世界に広がった人類の肌の色・体格・性別・食生活などの文化・行動・自然との関係・病気と免疫などの要因を、人類学的観察成果と遺伝子などを含む生命学的研究成果を紹介しながら解き明かしていったもの。人類を単なるクローンではない多彩な連続体という生命としてとらえ、「その人の中には最初の人間から途切れることなく続いてきた生命が」あり、「たとえ直接の血縁がなくとも、生きている人はすべてあなたと同じ生命体なのであるから、差別や紛争といった障害を取り除いて、それを守り続けていくことがすべての人に求められているのである」と締めくくられる。最新の研究が平易な文章で示されており、もてフェロモンは存在しない、太陰暦の多様な姿、アジアが穀物消費の家畜飼料への割合が低かったことで多数の人口を維持できたことなど、いろいろ勉強になり、講義で利用できる図版もありがたい。ただ狩猟の成果が均等に分配されているにもかかわらず、優秀な狩猟者の子供の発育がよいのはその妻が優秀な採取者だったからという研究が紹介されていたが、これはカップル選択の問題というより、夫の影響で妻が有利な採取環境を与えられたためではないかと、へそ曲がりの歴史研究者としては思うところ。

白川部達夫『日本人はなぜ「頼む」のか』

本日は枚方12週目。昨年ほどの猛暑ではないとはいえ、かなり疲れがたまってきたところ。そんな中で余り中身を確認することなく衝動買いしていた表題書の備忘www.chikumashobo.co.jp/product/9784480072337/。というのも著者は近世史家として名前は存じ上げていたのだが、叙述の中身はほぼ中世。「頼む」」という表現が、平安時代の「信頼し頼りにする」(「恃む」という表記はより仏教的)という意味が、中世になると「委ねる」(主従関係の表現にも使用)という意味を持つようになり、人に何かを「依頼するという意味へも語義変化した。しかし江戸時代になると「人を頼りにする」という意味が低下し、定型化した挨拶となる一方で、上向きへの依頼はもともと神仏に望みを念ずる時に使われた「願う」となったという国語学の成果に依りながら、主従制の展開過程と惣村の成長という歴史的展開の中で「頼む」の用法を取り上げ、著者自身の言葉によると網野善彦の「無縁」に対して「縁」の社会史を構想したもの。やや説明が冗長なところや、河内源氏の本拠を「河内多田荘」とするようなミスもあったが、着想はなかなか興味深く、中世的「頼む」が近世以後は「義理」と表現されていくことや、「頼み証文」が代議制の前提になる一方で、契約関係というより依存関係として構築されたことなども重要な指摘。こういう語義研究は近世文書における表記を熟知していることが不可欠であると実感。なお本論の趣旨とは関係ないが、「頼み証文」の初期の事例として紹介した享禄の「奈良宿彦五郎」が「般若寺観音院」に出したという文書は、是非確かめておきたいところ。