wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

満薗勇『商店街はいま必要なのか』

本日は「人類の歴史」3コマで世界宗教論、帰りはグッタリし、先ほど月曜日のカード・チェックが終わったところ。これから本日分のチェックをする気力はないので、取り急ぎ本日読了の電車読書の備忘。夏前に書店で目にして、名前は全く存じ上げなかったが東大文学部近現代史専攻という経歴をみて(現在は北大経済の教員らしい)、衝動買いしたものhttp://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062883252。書名は編集者の意向を踏まえたもので、もとのタイトルは副題の「日本型流通」の近現代史とのこと。百貨店、戦前の通信販売、商店街、スーパー、コンビニエンス・ストアという異なる業態をトピックとしながら、大正期から現代までの小売業の展開を、主に「消費文化」という観点から跡付けながら、商店街の歴史を浮かび上がらせたもの。1920年代から30年代半ばの百貨店およびそれが主導した通販による消費文化と商店街の対抗措置。スーパー成立期における生鮮食料品提供の技術的限界と個人商店の利点、家電の月賦販売・修理の必要性が町の電気屋さんを不可欠にしたこと。その一方で消費者運動が主婦による購買者目線によって、むしろスーパーの進出を後押ししていたこと。コンビニがフランチャイズによる自営家族経営の取り込みという形で発展し消費者の利益を追求した一方で労働に対する著しいしわ寄せを起こしていることを論じ、消費の論理が労働や生活の論理とのバランスを崩しつつあることを歴史的経過の中から説得的に論じられている。著者自身も脱サラコンビニ・オーナーの父母のもと一家団欒の時間をほとんど持てなかったということで、今どきの若手研究者としては珍しく切実な問題関心を有しており、そのなかで小売業における家族経営の再評価を打ち出している。ただし本書には(主著は未見)商店街を論じるうえで不可欠な「所有」の論理が全く欠けているように見える。著者は商店街も1920年代から捉えるが、近世町場に由来するものが少なくなく、小売業の集積体でなかったにしろ無関係といえないだろう。祭りの担い手・コミュニティーとしての商店街という性格も歴史的経緯、および商店主が自宅兼店舗所有者であることに由来するもののはずである。なお当方の20年以上住む地域は、その間に個人商店はほとんど消えたが、フランチャイズ系の店舗によって賑わいそのものはそれなりに維持されている。これはマンションの一階部分が店舗として賃貸されているためで、個人商店がシャッターを閉じてそこにもと商店主が住み続けるという状態とは異なっている。その問題を抜きに「消費文化」の在り方だけで語るのは片手落ちではないか。