「戦国期に奈良から尼崎を旅した僧侶たちの記録」再々修正
昨日記したように、金曜日に東京大学史料編纂所で写真帳を閲覧してきた。その一つとして京都大学所蔵の「宝珠院文書」写真帳を請求した。当方は『地域史研究ー尼崎市立地域研究史料館紀要』第113号(2013年11月刊行)所収の「小特集 宝珠院文書から見る中世後期の尼崎」に表題の原稿を公表し、同文書1-55「在庄下用日記」を翻刻するとともにその内容について逐一解説を加えた。ただしその翻刻に訂正があったことは当ブログで公表済みで、一部解釈についても修正の必要がある。なお当ブログは研究史上のものではないので、翻刻の訂正も以下に記すことも単なる自己満足に過ぎず、活字化されたものだけで批判していただいて構わないことは改めて確認しておく。さて市沢哲氏「小特集にあたって」に「地域研究史料館では京都大学より『宝珠院文書』のうち、中世後期の尼崎関係文書の紙焼き写真を収集して翻刻作業を進め、作業終了後に史料を検討する『宝珠院文書研究会』を阪神間の研究者で結成した」と記されているように、当方も含め小特集の執筆者たちは文書群全体ではなく一部の写真のみを用いて研究会をすすめ、その成果が活字化されたものである。そのため全貌については把握できておらず、前から気にはなっていた。ただ京都大学ではわざわざ関係者のお手を煩わせなければならず、写真帳閲覧に事務的に対応してもらえるこの機会までほったらかしにしてしまっていた。そして1函目をめくると5号・10号(順序は10号が先)は、55号文書の次に記載されるべきもの(ただし途中に欠損あり)であることが確実だと思われる。またさらに続きとみなすことができるものもあり、当方が翻刻した部分は全体の一部だったことが明らかになった(時間切れで全貌は掌握できず)。なおそれらの文書には尼崎に関係する地名は全く見られず、内容を深く理解して初めて関連文書であることが判明するものである。その点で最初の選別者を責めることはできず、目録に手がかりがあったにもかかわらず当方がそれを見落としていたことは大きな失策である。55号文書は一応は完結しているとはいえ、一部の解釈はさらに改める必要がある。何とか全体を掌握して再提示する機会を持ちたいと思う。