wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

前田雅之『古典と日本人』

本日は公務出張で、ひたすら歩き。車に乗れないので、徒歩かレンタサイクルしかないが、赤松関連の史跡にはいろいろ行かせてもらった(紀要に一年毎の実績は掲載)。片道1時間半は電車だったので、衝動買いしていた表題書を読了。世界を古典をもつ地域とそうでない地域(無文字社会に近い)に分け、日本をその一つに分類、「古今和歌集」・「伊勢物語」・「源氏物語」・「和漢朗詠集」を古典中の古典とし、注釈が開始される院政期を先駆とし、本文が確定される定家から後嵯峨期を古典的公共圏の確立とみなし(「パクス・カマクラーナ」らしい、別の本でみた「パクス・ゴサガーナ」よりはましだとは思うが、いずれにせよどこが「パクス・ロマーナ」と似ているというのだろうか)、戦乱のなかでもそれは躍動し、近世にも古典学は隆盛を極めるが、西欧近代の移入により古典は国語教育の一部門に矮小化されたとする。その上で古典には言説として生の歴史があるとして、それをアイデンティティーとして引き受け、小学校から暗唱させるべきだとする。なお著者は本文の一つに確立されていないという定義で「平家物語」を外すが、室町には恋塚・清盛塚など名所が成立し、さまざまなジャンルに派生しているにもかかわらず、また注釈書を定義に入れるなら手習いとしても普及した式目はどうなのというのもある。後者は日本における漢文の位置づけとも関わり、古典=仮名文学なのかという問題。近代に省みられなくなるというのも、そもそも古典になり得ていたのか、たんなる「支配的階層」へのパスポートに過ぎなかったのかということにもなる(「暗唱」は当方も「やらされた」記憶はある)。なお著者はひたすら左翼嫌悪だが(自虐とか平気で使える人)、益田勝実・西郷信綱のような文学研究の方向性を忘れ去るだけでよいのかとも思う。

古典と日本人 前田雅之 | 光文社新書 | 光文社