wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

戸川点『平安時代の死刑』

本年度は水・木が「研究日」(無給)なのだが、昨日病院から電話があり、再検査で腫瘍が見つかったので手術内容を変更するとのことで、再びサインをするため出かけることに。仕事が少ないことの唯一のメリットとは言え、これからもいろいろ振り回されそうな予感。そういうわけで読了したのが表題書http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b190499.html。一般に言われている死刑についての、薬子の変を最後に停止され、保元の乱で再開されるという言説を再検討したもの。①言説自体にもかなりのゆれがあること。②嵯峨天皇がうちだしたのも死刑廃止ではなく、制度は存続させた上で減刑によって徳を示すものだったこと。③その後も明確に廃止が決定されたことはなく、むしろ律令制下において死刑を奏上していた刑部省が機能停止したことで、制度として形骸化していったこと。④そのなかで盗犯以外に量刑権がない検非違使がずるずると犯人を禁獄していくとともに、盗犯でも死刑を奏上しないという庁例が形成されていったこと。⑤その一方で検非違使は犯人の死につながる肉刑を実施しており、権門による私的制裁もあり、これらは先行研究の言う私刑より、法権が分立した中での「公的」な死刑の一種と捉えるべきこと。⑥また梟首についても公戦の結果であり死刑の一種とみるべきこと。⑦保元の乱後の処置についても⑥の展開として捉えられるが、結果の追認ではなく執行そのものが天皇・貴族の判断に依ったため死刑の復活と認識されたこと。⑧それ以後も天皇・貴族の死刑への忌避感は続き、最終的には鎌倉幕府への罪人引き渡しに到るとする。なお論点⑥については、当方の最初の論文も引用していただいており、取り立てて異論はないが、穢の忌避感が京域と密接につながっていることは、全体のタテマエとしての死刑停止と実態としての死刑執行という論旨とも関わるためもう少し触れてほしかったようには思う。興味深かったのが⑤の論点で、全体的な法秩序に位置づけた上で「公的」な死刑とまで言い切ったのは著者が初めてか。また必ずしも相手の首を取る必要がない私戦と恩賞の対象として首を取る公戦概念をこの問題に持ち込んだのも示唆的で、別の箇所で「合戦の処置として勝者が敗者を殺害するのは武士にとって当たり前」(P174)とするのはやや一面的か。保元の乱にしろ治承・寿永の乱にしろ生け捕りにされた武士が多数(最終的には斬首)で、自害したものは意外と少ない。両者を分けるメンタリティがどこから来ているのかは気になるところ。