前日の続き3/2:朝食は8:00だったが、7:00の町内放送のあと、ホトドキスが鳴き続け風の音も強かったので外に出ると、対馬小太郎の墓1.5㎞という表示があったため散策する。宿は島の中心部の高台のようだが、すぐ田園風景が広がる。ただし散居村で墓も畑地とともに点在しており、また神社の鳥居が非常に小さい。これは佐賀平野も同様で、成人は頭を下げないと通れない仕組みになっている。目的地の対馬小太郎は蒙古襲来の戦死者と伝承されているが、石造物は中世後期のもののよう。鷹島には蒙古襲来の後に数世紀人が住まなくなったという伝承があるようだが、石造物の状況とは齟齬している。蒙古襲来については近世中期に伝承の体系化が図られた形跡がありやや注意が必要。そうはいっても当地が著名なのは弘安の役で沈んだ軍船が海底探査で引き上げられたためで、朝食後に訪れた資料館でその関連遺物を実見することができた。学芸員の方の説明によると海底探査は一ヶ所目から大当たりだったが、引き上げられた木製遺物の保存処理が追いつかないようで(全工程で10年はかかるという)、まだまだ海底に眠っているようだ。史料館前からは海底遺跡を遠望することができ、鷹島そのものが日本海からの防波堤となって海も穏やかな状況なのが確認できた。そのために軍船が集結して台風に見舞われたのだが・・・。その他にも住吉神社が勧請されており史料館に展示されている懸仏も見学するとともに、日本海を向いた立地も確認できた。現地に伝来している高麗仏もみることができ、中世対外関係の諸相を伝える重要な場所であることがわかる。個人ではなかなか来ることができないところなので、この機会にいろいろ勉強させてもらった。まだまだ名残惜しかったが貸し切りタクシーは橋を渡って佐賀県側に向かい、玄海原発横を通って名護屋へ入る。まず堀秀治陣跡を見学してから昼食をとり名護屋城博物館に。県立にもかかわらず日朝関係の通史と文禄・慶長の役関連の資料が並ぶ常設展は無料。翌日訪れた佐賀城本丸御殿も募金箱のみで、他にこういう類例があるのかは分からない。続いて名護屋城と城下町をめぐる。本丸は非常に眺望がよく、石垣も立派で秀吉の城の集大成というところか。城下町のほうは尾根地形を強引に町場化した状況が歩くとよくわかり、海岸線に張り付いている浦とは対照的。また名護屋城絵図とそっくりの地形もあり、まだまだ研究の余地がありそうだ。写真右は名護屋城山里丸の虎口の重なりで、高低差も大きく防備というよりほとんど芸術の域に達した石垣。夜は一泊二食5000円にもかかわらず、サザエの壺焼きや新鮮な刺身もあり充分満足。宴会でも地酒を満喫する。