wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

隅田荘

正月恒例となった腹減らしのウォーキングを兼ねた実家周辺の史跡巡り。本年二日は少し足を伸ばし、南海橋本から和歌山線に乗り換えて下兵庫駅から隅田荘(すだ、ただし現地には「すみだ子供園」があり驚いた)故地をめぐる。修士1年の時にカマラードの会の合宿で連れて行ってもらった記憶があるが、現地の印象は残っておらず25年ぶりの再訪となる。まず駅近くの利生護国寺へ。西大寺律宗で関東祈祷寺という特徴的なもので、写真左本堂は南北朝期に再建、解体修理によって永享・天文に修築されたことが判明し、戦国期まで重要な意味を持ちづけていたことがわかる。本堂裏には中世後期から近世初期と思われる石造物が並べられており、隅田一族の墓との看板が立てられていたが根拠は不明。寺は街道沿いに立地しているが、背後にはため池があり用水整備とも関係しているように感じた(事前準備はなく印象論、今あるものは近世的な雰囲気だが)。
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続いて村堂的な円光寺を経て隅田八幡宮へ。初詣客で大変にぎわっていたが当方は大高能寺と神仏習合が維持されていたことが興味深く、社殿背後に院政期の経塚も残されていた。裏山にはやはりため池があり参道に沿って用水が音を立てて流れており、開発に伴って建立されたものだろう。さらに足を伸ばし宿の存在が知られる真土へ行き、かつて山上の大聖寺にあったという室町期の宝篋印塔を実見する。現在の真土集落のすぐ横手を落合川が流れておりそれが県境となる。大和国となる川向こうには田地が広がっていたが、紀伊国側にはそれらしきものが見あたらず生業が気になるところ。そこから万葉集の川またぎの故地とされるものを見て隅田駅に戻る2時間弱の行程。隅田駅は無人駅だが地元中学の美術部らによってペインティングされていた。用水と地形・家の形・かつての里山景観(翌日は実家周辺をめぐり昭和30年代から薪炭林が団地になってから、次第に山を下りて谷下の田地に及ぶ「都市化」の過程が非常にクリアになった)など、やはり徒歩で現地を回るといろいろ勉強になるもの。今年は月曜から仕事が始まり、これから授業準備。
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