wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

大山崎円明寺

本日午前は京都で試験(結局聴講生二人を除くと七人になった)、その後は総合資料館で大阪では見られない仁和寺関係の科研報告書などの史料めくりをした後、昨年末できた西山天王山駅で下車して表題の地をはじめて訪れる。昨夏に来月のお座敷の依頼があり気にかかりながら(周辺の掲示板には講演会のお知らせのビラがあった)、ようやくここ数日まとめて考え始め(先週は今週末のお座敷の準備をしていた)、守覚法親王の弟子に円明寺と関係する人物がいることに気づくとともに、現地を見ておきたいと考えたため。総合資料館で見た聖教奥書には関係するものを見つけることができなかったが(残りは月曜日の試験前後で確認しなければならない)、やはり現地に行くといろいろイメージが湧く。道標のある地点はコミュニティー・バスの停留所から大門脇と呼ばれており、そこから急峻な坂を上った山裾に現円明寺は立地しており、大変眺望がよい。また横には御茶屋池という円明寺区水利組合が所有しているため池があり、大門脇前には台地上にもかかわらず平坦地が広がっている。円明寺が早くも中世後期には地名としてみられるようになるのは、この灌漑システムの成立がそれ以前に遡るものであることを想像させるもの。そういうことを考えていると、池の下でたまたま発掘調査現場があるのに気づき、旧知の担当者からお話を伺うことができるという幸運に恵まれる。現場は谷底を埋めた地形だが、鎌倉期の土器とともに瓦が見つかったとのことで、周辺まで寺域が広がっていたことは間違いないだろう。また御茶屋池は水が減ると中島が確認できるらしく、かつての庭園が前身ではないかと言うこと。やはりかなりの規模を有した寺院であることが想像される。貴重なお話どうもありがとうございました。後は文献をつなげて何が言えるかを考えなければならない。写真右は御茶屋池西側を望んだもの。左は御茶屋池とかつての寺地と思われる集落で、現在は堂のみが山裾に建っている。イメージ 1イメージ 2