wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

中嶋崇禅寺

本日は午前に京都での講義を終えてから、久しぶりに北山で調べ物。写真帳めくりではなく、そこにしか所蔵されていない刊本が目当て。それはある種の確認にとどまったが、引用されていた別の本が大当たりで、思いがけない史料を得ることができた。帰路は諸費用節約のため早めに切り上げて、阪急崇禅寺駅から地下鉄新大阪駅まで歩き、その途中にあるのが表題の寺院。偶然にも大当たり文書が含まれる文書群には、嘉吉の乱後の処理に関わる文書も含まれていたのだが(某自治体史に入れることができなかった)、赤松満祐が義教の首を安置した観音堂に、細川持賢が所領寄進して曹洞宗寺院として建立されたのが中嶋崇禅寺平凡社版歴史地名大系によると天正年間に伽藍は焼失するが、慶安年間に再建され、現本堂は宝暦年間に建立されたとある。一方でWikipediaには文明15年に焼失し、慶安年間再建、昭和20年6月7日の大阪大空襲で焼失し、平成元年に再建されたとあるhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E7%A6%85%E5%AF%BA_(%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%B8%82))。下に挙げる写真のように、現状は鉄筋コンクリートの伽藍で、前者が間違いのようにも思えるが、空襲から全く再建されないまま広大な寺地が維持されていたのかも疑問。どちらにしろこういう状況にも関わらず、まとまった中世文書が伝わっているのは奇跡的といえ、その努力に敬意を表したい。写真右が本堂で、左が足利義教首塚とされるもので、時期的にはその頃の五輪塔とみてよいか。
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それにしても現実は全くひどい状況になった。裁判所は縁座制を導入し、政治家はアメリカの靴をなめながら戦前回帰をとなえる矛盾。とにかく社会が存続し歴史が振り返られることを望むばかり。