wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

千田嘉博『信長の城』

本日は久しぶりに早起きして?、兵庫の見学会と兵庫城のお勉強。やはり寒かったが、初めて訪れた場所もあり都市の全体像を再確認できた(デジカメの電池が切れていたのは大失敗。また四両の神戸市営地下鉄湾岸線に終日女性専用車両があるのには驚かされた)。天正九年(1580)に信長配下の池田恒興によって築城された兵庫城は、近世にも陣屋として機能していたが、明治の運河建設と開発で全く地表面から姿を消してしまった。それが昨年度に大規模な発掘調査が行われ、築城段階の石垣の下層部が出土したことを契機とした研究会で、城郭史の最前線の議論を聞くことができた(当方の関心は築城以前にそこに何があったかだが、整地などの痕跡があり寺院の礎石も出土しているようだ)。折しも電車読書のほうもちょうど同時期の城の話でhttp://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?isbn=ISBN4-00-431406、同日に報告者の一人による著者批判を耳で聞き、著者によるその報告者批判を目で読むことになった(図ったようにお互いとも名指しはしていない)。さて本書は勝幡・那古野・淸須といった複数の大型居館が並立する館城から、桶狭間の勝利で権力を確立した後に、小牧山、岐阜、安土と移動するにつれ、家臣から隔絶した求心的権力として主従制を強化していったことを城郭構造の変化から読み解いたもの。他の大名権力では主人の山城屋敷に家臣が日常的に出入りしており、信長の志向性とは全く異なるということで、先日紹介した池上著書とともにその特異性が強調されている。著者年来の織豊系城郭論だが、近年の淸須・安土に関する地元の研究者の見解を真っ向から批判して別の像が打ち出され、桶狭間合戦についても異なった見解(奇襲説に近い)を出すなど、旧説を新書としてまとめただけのものでない点が特徴。とりわけ安土本丸御殿の清凉殿模倣説が全否定され、安土城天守天守台より大きい懸け造り(清水の舞台)だと想定されている点は驚いたところ(秀吉の大坂城もそうだという)。遺構の解釈はいろいろありうるのだろうが、門外漢としては突き合わせをしてほしいところ。なお著者は触れていないが、本日の兵庫城もそうだったが「信長の城」では大量の寺院石造物が石垣に転用されている。かつては宗教的権威の破壊という解釈がなされていたが、近年は単なる石材不足のためとされる。果たしてそれでよいのだろうか。