wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

羽田正『新しい世界史へ』

ただでさえバタバタしている上、某非常勤のシラバス入力でどういうわけかパスワードが変更されている、入力すべき科目がないなど、ひたすらトラブルが続き時間がないので簡単に済ましたいが、週末の報告に向けて読了した本書の記録を残しておくhttp://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn1111/sin_k621.html。従来の日本における世界史教育の歩みを振り返った上で、ヨーロッパ中心史観に立つものと批判した上で地球市民としての世界史の構築の必要性を論じたもの。全体の意図はわからないでもないのだが、何に向けて論じられているのか意味不明。新しい世界史の記述として最初に論じられているのは記述言語としての英語をヨーロッパ中心史観からバージョン・アップさせるべきだという主張で、どうみても歴史教育の問題とは思えず、同時代の見取り図を描くなどという提言は高校レベルの資料集でもすでに取り上げられており何ら目新しいものではない。前半で日本の世界史教科書・研究をひたすら批判しているのだが、著者が触れるフランスの教科書構成よりはるかにましで、それをヨーロッパ中心史観と批判するのは倒錯しているような気がする。地球市民という主張もわからないではないが、世界の非対称性の認識を抜きに構成するのは、取り上げられている素材・認識(オランダ東インド会社は長崎もインドネシアも同じなど)からみてむしろ強者の論理を肯定するだけのような気がする。また外国史の研究者が「趣味」で研究することを批判するのだが、提言では全体構想のためには地道な個別研究が必要と主張され両者がどういう関係にあるのか分からない。そもそも著者はイラン史を専攻しながらイラン人の歴史観とのつきあわせに意味がないと放棄し、イスラームに対する一般認識が変わらないことに失望し、世界史を構想するようになったというのだが、フランスで博士論文を執筆したという著者の認識とフランス学界のイスラーム認識は同一だったのだろうか。個別の認識をつきあわせた相互理解抜きに世界史の構築ははかれないのではないか。