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日本中世史専攻、大学非常勤講師・研究員などとして生活の糧を得ていますが、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

前川一郎編『教養としての歴史問題』

春の遠隔講義は昨日でようやく終了。6月から姫路は通常勤務になったが、それでも通勤時間は圧倒的に減少し、逆にストレス衝動買いが増えたという事情もあって、積ん読がたまるばかりに。そのため選書版より大きく複数著者によるものは自宅読書に転換。表題書もその一つで、従来の基準ならここに記さないのだが、収録されていた、呉座勇一『「自虐史観」批判と対峙するー網野善彦の提言を振り返るー』は同書のテーマにそぐわない歴史修正が含まれていたので、批判を書き残しておく。なお著者の網野論はもともとひどいと思っているので、その意味での意外感はなかったのだが、同書の構成では日本史研究者の代表扱いされているため、最低限の指摘はしておきたい。①P157「戦後歴史学天皇制研究をきちんとやらなかったから、『つくる会』にその隙を突かれたのだ、というのが網野さんの認識でした」。「認識」という表現で逃げているのだろうが、引用されているのも1970年代の研究を振り返った発言で、昭和天皇代替わり前後に前近代天皇制研究を急速に進展しており、「つくる会」の登場はそれ以後の話。その象徴的な成果である『講座前近代の天皇』の筆頭編者は網野批判の代表者として取り上げられる永原慶二で、著者がそれを揶揄するのならわからないのでもないが、因果関係としては全く誤っている。②P158~165「自由主義史観は右からの国民的歴史学運動」。これは著者の誤読とはいえないが網野の認識そのものが全くの歴史修正。国民的歴史学運動以後の歴史学歴史教育との分業という方向で歩んでいたもので、家永教科書裁判はその象徴ともいえるもの。もっとも1980年代には管理教育の進展・受験以外への無関心により形骸化していたのも事実。80年代後半の『新編日本史』が全く受け入れられなかったのも、反対側の勝利というより受験に役に立たなかったからだろう。ただ従来の歴史教育運動が行き詰まっており、そこから「つくる会」が登場したのもある種の必然だったと思っている。P149「危機感をおぼえた歴史学界は『つくる会』批判を精力的に行います」というのも買いかぶりすぎで、すでに足下から崩壊しており、学界総力挙げての運動でもなかった。家永裁判の終焉と「つくる会」の登場は交叉しており、こんな与太話ではないちゃんとした総括が必要。③P175「独創的な『無縁論』を展開していた網野さんが平凡な『日本論』にのめり込んでいったの」は、「歴史学界の『右翼に利用される』批判が一因なのではないでしょうか」。これまたいろいろ留保をつけているが、「無縁」は初出の原始共産主義から、資本主義の源流に転換させたのは本人で、「無縁」を名指しして「右翼に利用される」と批判したのは誰なのか、屏風の中から出してほしい。④P168「アカデミズムの内側に閉じこもる」ことがたびたび批判されるが、90年代の網野は「マルクス主義に挫折して硬直した主流派歴史学と対峙した学者」というイメージを色濃くまとってメディアに登場しており、両論併記新聞に「つくる会」関係者とならんで登場して、のんきに戦後歴史学・歴史教科書批判を繰り返しており、まさに害悪でしかなかった。一橋と並んで東大マルクス主義学者の最高峰でなる名古屋大学教員になり(その時期に発表された天皇論を批判したのは同志社大学オーバードクター)、80年代半ばまでの歴史学研究会・日本史研究会ではたびたび発言し、それ以後の歴史関係の出版企画のほとんどで編者になった人物を、本人の自意識はどこにあったにせよアウトローではなく自覚を持って発言してほしかった。今のところ著者はメディア特性に応じて言葉を選んでいるようにみえるが、くれぐれもその意識を忘れないでほしい。なお編者のイギリス帝国論などいろいろ勉強になったことは付け加えておく。

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