wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

吉見俊哉『大学とは何か』

本日は京都で試験、受講者名簿から受験者を一人一人チェックしたシートを終了後に事務に提出しなければならず、30分以上かかったが大きなトラブルもなく終了。総合資料館ではHさんにたまたまお会いして情報交換をすることもできた。史料めくりはこのところ熟睡できず少しきつかったが、東寺執行日記を終え醍醐寺文書に突入。帰りの阪急は十三まで座れなかったこともあり、電車読書も進行し読了したのが本書http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn1107/sin_k600.html。西欧中世の都市ネットワークの中でイスラムからのアリストテレスの受容により成立した大学が、印刷革命と領邦国家の衰退によりいったんは衰微。近代国民国家成立を基盤とすることで再生した国家に奉仕しながら完全にはこれと同一化しないドイツモデル。西欧的学知の移植とそれらを天皇のまなざしの下に統合する帝国大学モデル。戦後日本の新制大学と一般教養教育の導入をめぐる諸問題と、学生運動における高度経済成長に乗った大規模経営の矛盾から発した日大型と、帝大徒弟主義の矛盾から発した東大型が整理され、その後の展開が素描される。社会学者として大学の歴史を知の歴史として捉えているところがユニークな点で、IT化・国民国家の衰退という現状から、グローバル化した知という新たな中世モデルとして将来の大学の必要性が展望されている。知の最先端に所属する立場からの展望としては理解できるのだが、前近代日本史という個別的・言語制約的にならざるをえないテーマを専攻し、そもそも大学教育には従事しながら確固たる地位も得ていない身としては、やはり戸惑わざるを得ないところ。それだけでなく近年の学生に相当浸透しているネット右翼と今年度の「つくる会」系の躍進という状況を鑑みると、歴史学からは別のアプローチが求められているのではないか。三校段階で文章の手直しを求めるFAXに憤慨しながらも、やはり大学も学会も必要だと感じる。