wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

樋口大祐『変貌する清盛』

本日は普段通りの授業。昔なら休講ですんだのだが、ここ数年来の授業時間確保という流れの中ではそういう選択肢はなくなってしまった。本来の大学は自主的に勉強する場だったのだが、その面影は消え学生に勉強しているフリをさせるだけになってしまった。その末端にしがみついている身で愚痴を言ってみても何の解決にもならないのだが。そういうわけで電車読書のほうは順調に進み、読み終えたのが同書。出版社は歴史系だが著者は日本文学専攻で、今日でもたとえとして用いられる「おごる平家」など清盛に対する負のイメージについて、「歴史をさかなでする」試み。まず同時代史料には清盛のプラスイメージが描かれているが、『玉葉』では治承三年十一月クーデターでマイナスに転じること、延慶本には人柱を拒否した築島の造営のような王法仏法の外部に飛び出るような叙述も見られるが覚一本では「悪行」イメージが優位の構成となり、ネガティブイメージの原点に平時忠検非違使別当であった時の記憶にあるとして検非違使文学として『平家物語』を位置づける。また中世後期以降は清盛は人格的にも悪役化する一方で、知識人レベルでは積極的な評価もされるようになったという。さらに吉川英治以後の小説では、王朝的な視線に拘束された清盛像を解体し、外部に向けて開いてゆく力の体現者として造形される側面を、歴史を「さかなでするもの」・歴史の「救済」として評価し、神戸・阪神間の文学をモダニズムと、帝国がもたらした移民の錯綜したものとして読み解かれている。あとがきでは清盛が当時の中国語を解した可能性に言及され、言語文化の異なる人々同士が、選別と排除の連鎖から抜け出し、試行錯誤を通じて摩擦や「出会い損ね」をも受け入れる器量と勇気を持てるようになるためにどうすればよいのか、という著者の問題意識が記されている。近年の歴史研究(著者が多く引用するのは高橋昌明氏)で明らかにされてきた清盛の東アジアへの姿勢を評価し、清盛イメージについてもそれを評価する作品を積極的に位置づけて、通俗的・王朝的な視線と対比するという一貫した構想で叙述されている。それはそれで興味深いのだが近世・近代の部分は余りにも駆け足になってしまっている。シリーズの性格上仕方ない面もあるのだが、やはり不満が残るところhttp://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b81811.html。明日からは三連休。春休みから方向性を見失っており、何とか立て直さなければならないのだが。