wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

石原俊『硫黄島』

昨日の電車読書の備忘。著書の仕事は少しばかり眺めていたため購入していたものwww.chuko.co.jp/shinsho/2019/01/102525.html小笠原諸島より南の硫黄列島に、移民による入植者社会が形成されていたこと、当初の砂糖生産が沖縄と同じく20年代の価格暴落で大打撃を受けたこと。その後に小笠原ではカボチャなど京浜市場向けの蔬菜栽培で復活し、硫黄列島ではそれとともに麻薬原料コカの一大栽培地とされ日本帝国のなかの治外法権地帯であったことを象徴していること。定住者の多くは拓殖会社の小作人だったが自然ニ恵まれ衣食住には不自由しなかったこと。対米前線基地として1944年までに大規模滑走路が建設され住民を動員して軍事要塞化されたこと。女性・子供は強制疎開を命じられたが16~59歳の男性は残留して軍務に動員され103人の島民が地上戦に経験したこと。その一方でイーストウッドの二部作も含め住民の存在は忘却され10名の生存者が自ら語り出したのも2014年になってからで、沖縄のみが「住民を巻き込んだ唯一の地上戦」ではなかったこと。米軍は日本委任統治にあった旧南洋諸島とともに、小笠原・硫黄列島を「南方諸島」として軍事占領下におき民間人の帰還・移住を禁止したこと。沖縄・奄美をさす「南西諸島」とあわせてのこの米軍の支配はソ連の千島支配承認とのバーターとして実施されたこと。南方諸島のうち小笠原は米軍雇用者として住民の帰還が認められた一方で、硫黄列島は閉鎖基地としたため島民は「難民化」したこと。1968年に南方諸島の施政権はアメリカから日本に返還されたものの、かなりの島民が希望していた硫黄列島への帰還は日本政府は拒み自衛隊の基地が置かれ日米共同利用基地化され(日本軍人遺骨の回収も進んでいない)、基地のない北硫黄島すら帰還の対象から外されていること。島民は年三回の墓参が許されるのみで、補償をめぐっても分断工作で多大な混乱が生じたこと。などが明らかにされ硫黄島はいまだ「戦後零年」であるとされる。全くの不勉強で初めて知ることばかり。1988年に刊行された鹿野正直『「鳥島」は入っているか』は、島尾敏雄に依拠して徳之島の西に位置する硫黄鳥島をタイトルにしたものだが、これはあくまでも一種の思考実験。それに対して日本近現代史の最先鋭地としての状況を実証的に扱った本書はそれに比しても遙かに重たいもの。