本日は1617会の企画で近江塩津に出かける。数年前に巨大な起請札が出土したということで気になっていたが、現地を実見する機会がないままになっていた。すでに諸展望は失われているのだが、せめて「見るほどのことは見つ」と感じてから研究者生命を終えたいと思い、格安チケットを衝動買いした次第。大阪から2時間弱の電車・バスを乗り継いだのはわずか6人でいぶかしく思ったが、車で訪れた方もあり総勢20名程度でまず遺跡の概要について説明を受ける。12世紀に琵琶湖を段階的に埋め立ててつくられたもので、1185年の地震で打撃を受け神社遺構(前身は8世紀まで遡るらしい)は廃絶したものの、港そのものは再生され次第に活動量を低下しながら存続し、15世紀には湖面の下に姿を消したという。地震・湖底遺跡という特徴から出土遺物の残りは一般の遺跡と比べを圧倒的によく、大量の箸・漆器などの木製品、船大工の工具らしき鉄製品などが多数発掘され、奉納されたミニチュア木製品から、近世琵琶湖舟運で利用された構造船がすでに存在していたという、旧来の常識を覆す成果もあったという。遺物の質も担当者によると京都の町中並で、多数の中国製陶磁器や玩具類など裕福な生活が考えられるという。担当者は草戸千軒以上と自負されており、当方も第一級の遺跡であることは間違いないと思う。ただし参加されていた歴史地理研究者・考古学研究者からはいろいろな仮説が出されており、わずかな調査区のみで全体を評価することはまだ早いように思える。今後範囲を広げていくつかのトレンチを進めるとともに(背後は現集落で全面発掘は困難)、敦賀・大津という交通体系全体の中に(11世紀にはすでに大津住人は非常に大きな力を持っていた)位置付け、流通する物資についても吟味する必要があろう(担当者は井戸枠などに転用されたへぎ板を流通品とするが文献からは疑問)。その後は周囲の状況を確認して、やはりバス・電車を乗り継いで帰阪。接続待ち時間・飲み時間も含め4時間の行程となったが、いろいろ情報交換ができ有益な時間となった。皆様ありがとうございました。写真左は12世紀後半の遺構面で街路と前の畠の方位は一致。中は出土した腰刀(柄ついたままなのは初めて見た)。右はバス停のある道の駅内の説明版の全景写真。