本日、研究会に出かけるついでに観覧。発掘調査自体はかなり前で、このタイミングで企画された理由は不明だが、弥生中期から江戸以降まで9期にわたる変遷と出土遺物が展示。最盛期はⅦ期の室町前期で、「鵤荘絵図」に描かれた筑紫大道の延長線上に、鎌倉初期の井戸を埋めて道が造られたことが明確になり、それをはさんで多数の掘立柱建物が検出。中国産・常滑・備前なども出土している。遺跡を林田川をまたいだ地名が誉田町広山、拙稿で触れたように14世紀後半には将軍が滞在する「弘山御所」が維持されており、嘉吉の乱の際の着到も弘山で行われている。図録はないが遺跡の変遷を記したカラー・パンフレットが配布。