wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

利神城

本日は久しぶりの6:00起床で兵庫県佐用町に出かける。諸事情により利神城跡等調査委員会の末席を汚しているため。利神(りかん)城は近世の地誌では南北朝期から存在したことになっているが、きっちりした文献史料は委員会メンバーが公表予定になっている戦国末の文書が唯一のもの。その後は慶長5年に播磨姫路城主池田輝政の支城として、甥由之が入城し大々的整備が行われたらしい。元和元年には輝政弟の輝興が城主となり膝下に平福城下町を整備したが、寛永8年に平福藩が廃止になったことで、廃城になったとのこと。今回、史跡として整備する計画が立ち上がり、今年度中に報告書を刊行予定のため、その会議を兼ねて現地を巡検したもの。この城の特徴は中世的縄張りの山城の主要廓に石垣が備えられているところで、しかも慶長初めで、しかも支城であるにも関わらず高石垣が用いられている点でも非常に貴重とのこと。確かに現地で見た光景は壮観。写真左は馬場と称される曲輪から二の丸・本丸の石垣をみたもので、その上には天守の石垣が、左手には三の丸が見えそこも一部に石垣がある。さらに360度の眺望があり、その立地が軍事上の必要性に依ったことが想定される。写真右下は北西方面を望んだもので、正面の谷は近世因幡街道で、千種川の屈曲と分岐点も確認することができる。街道沿いには平福宿が立地し、向かいの山手に廃城後の近世陣屋が置かれていた。また利神城膝下には御殿屋敷と称される池田の常屋敷が立地しており、その石垣も残されている。写真右上の下側に見えるのが南石塁。常屋敷からは登城道があり、左上に天守の石垣がみえる。なお石垣は残念ながら智頭急行鉄道によって破壊されているが、それによって石垣の間を抜ける列車の姿がみえ、「撮鉄」には格好のスポットといえる。また御殿屋敷の立地する千種川左岸は現在は田として利用されているが、一部行われた発掘調査では鋳物師・町屋などが確認されており、近世初期の城下町が立地していたと想定されている。朝は-2ドまで下がったらしいが、風もない好天に恵まれ、現地の状況をしっかり確認することができたので、あとは報告書を執筆するのみ…。*なお、城郭の中心部は町の許可なく立ち入りは禁止されていますので、ご留意ください。イメージ 3イメージ 2









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