wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

冷泉時雨亭叢書『翻刻明月記二』

図書館から借りて二週間かけてようやくデータ化を終える。院生時代に国書刊行会本により入力したものも多数あり、いくつかの論文でも利用したが、字句の訂正はかなりすることになった。幸いにも要旨にまで影響を与えるものはなかったが・・。特に補書と本文が国書刊行会本ではごっちゃになっているものがあり、今回はじめて意味がとれるようになった記事も少なくない。『明月記』は同時代の他の日記と比べものにならないほど情報量が豊富で、そこから都市社会を追及するという「古記録邪道研究」をしている身としては、本当に貴重な仕事でありがたい限りhttp://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=16393。ただ解題に建保二年から元仁元年にかけて自筆本が全くなく、わずかに部類記が伝えられていることについて、「乱に関係した建保二年から元仁元年間の日記を、乱後に幕府の処断を逃れるために廃棄するにあたり、有職故実だけを部類して伝えられた結果によると思われる。さらに晩年に清書にあたり、部類記も廃棄したと想定される」とするのはどうか。定家本人が廃棄したのは間違いないのだろうが、その理由は「幕府の処断」とは思えない。幕府が貴族たちに日記の提出を求めることはないはずで、残されたいくつかの記事を見ても乱前にはむしろ後鳥羽批判が書き連ねられていた可能性が高いと思われる。それらも含めて子孫に伝えることを憚ったためだろう。乱後の毒舌は残しているのだから、その時期についても残しておいてくれれば、承久の乱研究は相当風通しのよいものになっていたはずだが、大変惜しまれる。