wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

黒田日出男『国宝神護寺三像とは何か』

昨晩は極端に暑くも寒くもなかったはずなのだが、何度も目が覚めてしまい寝不足。講義の「荘園制と民衆生活」はそこそこうまくいったつもりだったのに、反応はボロボロ。社会の話をすると想像力が欠如しているせいか、非常に反応が悪くなる。文学部の専門科目なのだが・・・。相変わらず電車内は暗いが(阪急は冷房温度もあげ車内は無照明、京阪は冷房普通で車内はやや暗め、大阪市営地下鉄は冷房は寒すぎで照明は半減以下)、本年度の教養関係の講義で取り上げたこともあり読了したのが本書http://www.kadokawa.co.jp/book/bk_detail.php?pcd=201106000865足利直義(伝源頼朝像)・尊氏(伝平重盛像)・義詮(伝藤原光能像)とする旧説を補強したもので、長い研究史をたどりながら結論に至るという『謎解き洛中洛外図屏風』以来のスタイルがとられている。圧巻は描かれた絵絹のサイズを編年した部分で、巨大な俗人肖像画は頂相の影響を受けて南北朝期に成立したもので、絵絹そのものも元からもたらされた可能性が高く、賛のない形式は祖師像と共通するということが、モノにそくして説明されている。そのことを前提にして直義と夢窓疎石の「夢中問答」から導き出されたのが、神護寺にも所蔵されている弘法大師像と僧形八幡神像とのセット関係で、前者が直義像(大師像の前提には聖徳太子信仰もあるという)、後者が尊氏像にオーバーラップされていると結論づけられている。説得的なのだが、残念なのは大師像と八幡神像(「互の御影」)と呼ばれるらしい)の図版が掲載されておらず(神護寺蔵のうち後者のみ示されている)、セットとしての比較はされていなかった。ただそこから俗事に展開して観応の擾乱時に尊氏像が義詮像に変えられたとするのが、逆に唐突さを増したような気がする。また直義の毒殺によって三像は早い段階で神護寺自身の手で死蔵されたという見解と(P326、応永9年の神護寺規模殊勝之条々に全く記載がないという批判をクリアするため)、堂内に掛けられなかったためもっとも痛みが少ない直義像が家康に売り込むために「頼朝御影」とされたという見解(P127、そもそも家康との関係は傍証のみのありそうな推測に過ぎないが)は少し矛盾しているのではないか。それにしてもバイタリティーはさすがで、こちらも見習いたいところ。