wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

中野敏男『詩歌と戦争』

昨日は研究会(久しぶりのお勉強)、本日は非常勤(昼のみ実施)で宵山の京都に二日連続で行くことに。日曜日は飲み会を早めに切り上げたためひどいラッシュにならなかったが、本日は帰路の西院駅に到着した時点で車両故障に遭遇し、ホームで10分以上待たされたあげく超満員の電車に乗ったのに、淡路の乗り換えが悪くて次の特急に接続していた。どことも職員は極限まで削減しているため、ホームでのアナウンスは大混乱しており、駅員の姿すら見えずどういうわけか警察官が巡回していた。そういうなか書店でたまたま見かけ、見たことある著者名ということあって購入して積んでままになっており、本日片手読みで読了したのが本書http://www.nhk-book.co.jp/engei//shop/main.jsp?trxID=C5010101&webCode=00911912012。童謡運動から戦争詩に至る北原白秋の軌跡を中心に、1920年代から戦時体制への連続性と無反省な戦後への継続という、ここ10数年来ありきたりの枠組みに沿って論じられたもの。白秋についてはほとんど知らなかったためいろいろ勉強にはなったが、全体としては著者のあとがきの言葉をそのまま借りると「無手勝流の独断」に充ち満ちたどうしようもない著作。はじめになどでは関東大震災がいかにも転機になったような書き方がされるが、直接の因果関係が示されているのは東京からの避難者によって東京文化が拡散したことのみで、白秋に即して何かあったわけではなくむしろ連続性が強調されている。「郷愁」がキーワードとされ移民・植民地帝国と重ね合わせて議論されているが(北米移民が白秋の詩文に触れることなどあり得ないだろう)、彼らは単なる棄民で地方から東京への人口移動が根本的な要因。20年代の「大正デモクラシー」と30年代の戦時体制との連続性もすでに常識化した議論で、「大東京」の実現は「日本人みんな」の気持ちを揺り動かすなどという単純な構造ではない。戦後日本で唐突に叙述されるオキナワ・フクシマまで何でもかんでも、詩文のメタファーで関連づけて体制批判のつもりなのだろうが、学問としてはずさんに過ぎる。やっかいなのが実証主義歴史学を批判するこの潮流が大きな影響力を持ってしまい(中世史の網野善彦も客観的には同じ位置を占めた)、あとがきで「15年戦争」と「アジア・太平洋戦争」という全く異なる概念を同一視するなど全く無理解のまま歴史学批判を繰り返すことで、「つくる会」と共鳴しながら歴史学の影響力が失われてしまったこと。これが教科書問題のような、「国民の物語」を否定しながら民主的で批判能力を養うための歴史教育の必要性を主張する歴史学が、劣勢に立たされている大きな要因になっている。