wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

谷口淳一『聖なる学問、俗なる人生ー中世のイスラーム学者』

三連休は順調に滑り出したにもかかわらず、ひょんなところから自己逃避にふけってしまい、研究史整理を数枚書いたのみで終わり、本日は先週から始まっている講義の二回目。講義を始めてから昨年度の使い回しをミスの修正すらせずにいたことに気づき焦るが、何とか切り抜けることができた。電車読書もわずかながら進み、読了したのが本書。中世のウラマーイスラーム諸学を修めた知識人、学者を指す複数形、単数形はアリームというらしい)について、クルアーン学の展開と学者の登場=もともとアラビア文字では異なる発音の文字が同形で表されており、そこから精確なテキストと読み方および解釈をすすめる文献学手法が展開したが、アッバース朝クルアーン被造説を強制する異端審問が一時期行われていたという。神の言葉で被造物ではありえないという多数説に対して、カリフがイスラーム共同体の最高指導者となる意図から始められたもののようで、キリスト教の異端審問とは少し性格が違うようだ。続いてどの師匠から学問の口承伝授を受けたかが重視される声の文化、ウラマーのつく職業として裁判官(カーディー)、マドロサ(学院)・マクタブ(初等教育)の実態が説明されるが、宗教性を帯びた学問を通じて収入を得ることを避け、あえて直接関係ない仕事に従事しながら学問を続けるという道を選んだ学者も少なからず存在したという(たしかに宗教とは関係ないが、非常勤という中途半端な立場で研究を続けるより、在野の研究者を名乗るのがすっきりしていると思わないでもない)。また十字軍以後の政治的混乱の中での名門学者家系の消長についても最後に紹介され、政治・軍事権力に影響されながらも、別の機能を果たし、しかも日本中世の僧侶とも異なる(あえていえば禅律僧がそれに近いか)ウラマーの実態が示されている。マクタブ教師の悩み(問題児の処遇・体罰の是非)と現代日本の小学校教員を重ね合わせるなど異文化理解を表面的に捉えているようにみえるのは少し気になるが、いろいろ勉強にはなった。再来週のイスラームの講義に少しは活かせればよいのだが・・・http://www.yamakawa.co.jp/product/detail/1925/