wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

勝持寺旧境内遺跡

本日は昼前に自宅を出て阪急長岡天神駅で各駅に乗り換え(誰も知り合いに会わない)、東向日駅で下車し(同)、JR向日町から来たバスに乗り(同、みんな車で行ったのか)、南春日町バス停で下車して大原野神社鳥居前に着くもやはり誰もいない。本殿まで行ってようやく見学会の日程を間違っていたことに気づいたという体たらくで、本当に注意力に欠けている。仕方がないので現場らしきところがないかと探していると、竹藪の向こう側にそれらしき作業をしている場面を発見。担当者から本来の見学会は明日だったと知らされるが、あつかましくも現場を見学させていただくことができた(本来は休日にもかかわらず作業をされていたのは不幸中の幸い)。辞書類によると勝持寺の由緒は古代に遡り、足利尊氏が保護し、佐々木道誉が花見をしたと太平記に伝えられるが、応仁の乱で打撃を受けて天正年間に仏殿が再建されたとされる。ところが道路建設のための発掘調査で15世紀後半に大規模な子院の造成が行われ、しかも他に類例を見ないような大規模な石垣が発見されたというのでhttp://www.kyoto-arc.or.jp/、某研究会で見学会が企画されそれに参加するつもりが一日早く来てしまったというわけである。現場を見ての感想は壮観としかいいようがない規模の大きさで、この時期からすると信じられないほどの土木工事が行われたことがわかる。平坦面をつくるために斜面を大規模に埋め立てて、幾重もの石組みを配置して崩落を防ぎ、最前面には高さ2.8m(当時の地表面から見えるのは2m強)・幅32mの石垣が造成されている。現場は埋め戻し保存で調整されているようで、直接見ることはできなくなってしまうため大変貴重な機会になった。突然訪れたにもかかわらずご案内いただいた担当者の方に厚く御礼申し上げます。写真手前の石が崩れ土が見えている部分より下は当時は地中に埋もれていた部分で、それより上位が露出していたようだ。石は後の石垣と異なり上面に大石が配置されることがあるなど独特な工法が取られおり、見栄えのためというよりも崩落を防ぐのが目的だったとされる。
イメージ 1
本日帰宅すると不在配達票が入っており御編著・御共著4冊をいただきました。ありがとうございます。GWはカレンダー通りで2・6日は仕事で、あとは自宅におります。