wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

黒田日出男『頼朝の真像』

本日も講義を終えて写真帳めくりに。地下鉄・阪急ともにぎりぎり間に合い調子がよいと思っていたら、バスに1m差で置いていかれ、大雨・大風の中を汗水たらして坂道を上りようやくたどり着いたら・・・閉室・・・。先週言われていた危惧が大当たりに、相変わらず運がない。センターにも知り合いが見当たらなかったので、図書館で新着雑誌を探すがそれもめぼしいものは見つからず帰路に。途中で新しいカバンを探すがこれも気に入ったものが見つからず全くの無駄足の午後になってしまった。このところ売り切れで買えなかった水曜安売り卵を手に入れたのが唯一の幸い。電車読書のほうだけは順調に進み、先週金曜日に購入した本書を授業準備のために先に読了する。いわゆる神護寺三像の比定し直しの副産物として始まった源頼朝の真像探しで、著者お得意の謎解きスタイルで構成されている。研究史から問題を引き出し、史料を探して試行錯誤しながら結論にたどり着く過程は、全盛期ほどの切れ味はないしろやはり読ませるものがあり、東博蔵頼朝像は北条時頼像であることを明らかにし、山梨善光寺蔵頼朝像が死後まもなく北条政子によって奉納された生前の面影を伝えるものであると結論づけられる。善光寺蔵の銘文を「尼二品殿」とする読解は、写真の精度と当方の古文書読解能力の低さもあって先に取り上げた著書http://blogs.yahoo.co.jp/wsfpq577/12049348.htmlほどの説得力はなく、文保年間の記述にもかかわらず「故」が記されていないのはどうしてなのか疑問はあるが、結論そのものはおおむね納得できるものである。ただし頼朝像が死後まもなく奉納され、後に頼家像(近世に焼失)・実朝像(現存)が奉納されたという見解(著者自身やや含みを持たせているが)は、頼家像奉納のタイミングを考えると疑問が生じる。むしろ源氏三代将軍が「歴史」になった政子最晩年に、すでに制作されていた肖像などを元に一括して作成・奉納されたと見るほうが理解しやすいのではないかhttp://www.kadokawa.co.jp/book/bk_detail.php?pcd=201009000564