wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

宮尾與男訳注『きのふはけふの物語』

本日は某自治体史の平安期担当に加わった関係で午前中から某研究会に参加し、銅鐸・古墳のお勉強。専門的な議論には全くついていけなかったが、最先端の研究を知ることができ、耳学問になるとともに講義の準備としても大いに役立った。17:00から21:00までは一次会・二次会で、結構飲んだが色々お話ができてこちらも有益。行き帰りの電車読書のほうは、『醒睡笑』よりも古態という近世初期の笑話集の文庫版をようやく読了http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062923491。底本と拾遺をあわせて全234話で、当時の俗語を知る上では有益で、全体的に短文で史料として使えるものはあまりなかったが、摂津国中島の堤の維持に関する話など社会性のあるものも少しは含まれていた。ただ露骨な性表現が多く、堤の話も「つく」ために集まった人足に比丘尼が「汁」を出すという話が、その関係に転がっていくという展開。開けっ広げという言い方がも可能な一方で、露骨な性的眼差しが許容されていたとみることもでき、現代にもつながる非常に男性中心主義的な発想が無邪気に表現されている(そういえば本日の飲み会でも…)。ただ現在と異なるのは「有人、女はかりすき、一ゑんに若衆のかたをしらす」(上109)と男色も常識とされていた点で、天皇・将軍の近くに仕える人々が自動的に男色の相手と見なされる笑話もみられる。僧侶の魚鳥食・男色を笑う話も多数あり、世俗化した近世初頭の雰囲気を伝えたものと思われるが、当たり前に描かれる稚児との男色は中近世のどちらに引きつけて読むかは即座には判断できなかった。なお訳注者は三代続く文学研究者とのことで、濁点のない平仮名で何気なく目を通すだけでは意味が掴めないことがあっても、現代語訳・語注・鑑賞によって理解することができたが、体位の解説など性表現の解釈に一番力が注入されているように思えた。鑑賞ではじめて理解できたものもあったが、それのみで解釈すべきか疑問に感じるものもあった。