wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

吉見俊哉『「文系学部廃止」の衝撃』

今週から週2で姫路行き。ただし行きは大阪駅での座席確保のために並んでいる以外はほとんど睡眠時間補充に費やし、帰りは三ノ宮(金曜日は大阪)まで会話をしているため、さほど電車読書は進まず。それでも2月に衝動買いしてしまっていたものを読了。類書は他にも出ているが、『博覧会の政治学』・『ポスト戦後社会』をはじめ、いくつかの本で勉強させてもらっていたため購入http://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0823-e/。2015年6月8日文部科学省通達が「文系学部廃止」と報道されたことについて、戦前以来の一貫した文系軽視の流れに過ぎず、ことさらに重要なものとすることを誤報と断言。その上で「文系は役に立たない」という一般的な通念について、ウェーバーの「目的合理性」と「価値合理性」概念を利用して、理系=技術的知を前者に、文系=創造的知を後者とし、文系の知は「長期的に役に立つ」ことを強調。そこまではナポレオン戦争にドイツが敗北し、近代的大学が模索されるようになるという見方にやや違和感を覚えるものの(フィヒテを取り上げるが、それを国家としての「ドイツ」と同一視してよいのか)理解可能。ただしついで戦後日本の高等教育史について、大学進学率の上昇を大学の生き残り策と批判し、レベルの低下を嘆いたあげく、自らの授業実践を取り上げるところからは、単なるエリート主義としか思えなくなる。複数の学問を学ぶ、青年期・30才前後・60才前後(子育てを前提とした女性は50歳前後)というそれはそれで納得できる主張も、今の大学進学率が高いと評価するなら、どういうふに現実社会と接点を持って考えているのか全くわからない。しかもレベルの低い日本人院生が増えたために行っているという大学院の授業「アタック・ミー」といっても英語の使用を別にすると、対象を批判的に考察するというだけのもの。少し前に京大の新しい大学院組織に関するTV番組で「何のために学ぶのか」という自主的議論が放映されていたときも思ったが、これらは著者の考えでは大学に行く価値があるかどうかというレベルだった当方が学部1・2回生で学んでいたこと。結局はひたすら学生を愚民化しているだけにみえる。なお最初の著者の文部科学省通知理解についても、その後進行している事態をみると、著者自身が富山某とグルかとすら疑われるところ。専任の思いつきのカリキュラム改革でいつ吹っ飛んでしまうかわからない非常勤稼業も来週から始まる。早稲田では画期的な待遇改善があったがhttp://uupltokyo.exblog.jp/23048124、こちらは展望が見えないまま後味が悪い読書となった。写真は水曜日の姫路城。木曜日の雨にもかかわらず金曜日も見頃は続いていた。
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