wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

新崎盛暉『私の沖縄現代史』

本日は振替姫路で、紀要の最終校正。昨日の送別会(これで大学院の「後輩」の主な方々は全てパーマネントになった)で、とんでもない情報を知り慌てる羽目になったが、何とか応急処置をして提出。これについてはまた報告する。アルコールが入った上に、変な人事情報を知ったこともあって熟睡できず、いつも以上のふらふら通勤になったが、東京行きから持ち続けていた表題書をようやく読了https://www.iwanami.co.jp/book/b279054.html。何冊か著作を読んだことがあり、名前・肩書き・内容から沖縄で暮らし続けていたと思い込んでいた著者が、両親とも沖縄出身者だが1936年東京生まれというのを立ち読みで知り、意外に感じて購入したもので、「本土復帰」後の1974年に沖縄大学に赴任するまでの自伝的運動史。著者の父親は琉球士族の末裔に産まれた二男坊で、日本大学予科二部に進学したものの、結局は専売局に勤務。母親は徳之島出身で那覇の裁判所で書記をしていた父親のもとに生まれ、小学校教員を経て父親と結婚するために上京したといい、戦前沖縄の知識階級のある種のコースだったと思われる。それが疎開・敗戦を経て1952年の都立小山台高校進学時に、サンフランシスコ講和条約発効を祝う万歳三唱を経験することで、切り離されることになった「沖縄」を強く意識。一浪して東京大学に進学し、本土の学生運動にオミットしながらそれに沖縄の立場から違和感を感じながら、親族を通じて島ぐるみ闘争に共感し、初めての沖縄訪問。一年浪人して都庁に勤務しながら沖縄資料センターで資料収集・著作活動・運動に参与、その間の諸運動団体との距離・さまざなな人間関係を経ながら、「本土復帰」時に、沖縄大学および国際大学の統合反対運動に東京から関与し、その関係で最終的に74年に沖縄大学に迎えられることになる。より学究的とはいえ我部政男なども似たような経過のようで、日本から切り離され帰還が許されなくなったことによって逆に強く「沖縄」を意識せざるをえなくなったエリート層が、運動および学問のうえで非常に大きな役割を果たしていたことを知る。本書には全く名前が出てこないが、かの安良城盛昭も東大から沖縄大学に行っており、似たような境遇だと思われる。ただ沖縄で生活をし続けた人々、および非エリートそれぞれの関係については気になるところ。その一方で著者がノンセクトラジカル的な立場で評論を発表・講演活動を初期のみ「新田暉夫」後には本名で続けながら、都庁に勤務し続けたという60年代の緩さは隔世の感がある。網野善彦の高校教員時代もそうなのだろうが、「政治の季節」がこのような労働環境に支えられていたことがよくわかる。