wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

倉田喜弘『文楽の歴史』

休日で延び延びになっていた月曜日の講義もようやく始まり、後期は月・火が超大人数、木・金は逆に超少人数となることに。明日の専門講義は史料を読ませながら進めているので少人数でちょうどよいが、教養課程は多すぎると疲れるし、少なすぎるのもやりにくいところ。そんなこんなで電車読書も進み、夏前に購入していたものを昨日読了。書誌およびwikiによると著者は1931年大阪市生まれで、大阪市立大学卒業後はNHKに勤務し、1988年に退職し芸能史研究に専念し、岩波近代思想体系の『芸能』校注など多数の著作があり、当方も今年春の講義準備で 『芸能の文明開化』に目を通した。また文楽については「(昭和)二〇年代の半ばへ戻ると、私も含めて観客は三人という日があった」(215頁)と記されていてるように、熱心な観客だったようで、1962年には職場の上司の要請で文楽協会発足の実務にも携わったという(ただし途中で東京に転勤)。その著者が古浄瑠璃の時代から現代までの文楽の歴史を概観したもの。近松門左衛門の作品の大半が一回限りの上演で終わっていたこと。一旦衰退した浄瑠璃が三味線の発達・三人遣いの人形の登場・義太夫節があいまって18世紀末以降に隆盛を極めること。明治5年松島で開業し同17年に御霊神社境内に移った文楽座と、対抗する非文楽座系が活動する明治中期が最盛期だったこと。演者の世代交代・浪花節・新劇などに押され観客減となり松竹に譲渡されるも不調で、中学生の鑑賞教室・「肉弾三勇士」など時局ものを取り入れるとともに、「大和民族ノ誇」として国家保護を要請することになること。戦後も国際講演は好評を博するが「義太夫は難しい」という声が強くなり、松竹も「娯楽としての文楽」をあきらめ、政府および大阪府・市の補助金による1963年の「文楽協会」発足となったこと。橋下元大阪府知事・現大阪市長による補助金カットにさらされているなか、ユネスコ無形文化遺産として保護しなければならないものの、後継者が途絶えることで命脈が途絶えることを危惧して締めくくられる。なお最後に明治期に活躍した演者の回想が再録されている。明治後半期が転換期というのは興味深く、恐らくこの段階で大阪町人が「素人」の教養として身につけていた節・三味線が途絶えたことが背景としてあるのだろう。また戦時体制期の文楽については簡単に触れられるのみだが、追及するといろいろ興味深いのではないか。ややくどいところもあるが、ともかくこの危機のなかで本書がまとめられたのは大変有益http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/6002950/top.html。夏に諸方面に御迷惑をおかけした公募書類が昨日返却された。本当に皆様には申し訳ないとしかいいようがない不甲斐なさ。