wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

今井寺内町

昨日は某研究会で朝から今井寺内町へ、近鉄鶴橋駅にはハイキング姿の男女多数(山ガールは見かけず中年以上ばかり)と乗り合わせたが、八木で降りる気配はなく室生か赤目にでも向かうのだろうか。今井のほうも観光客はちらほらで、しかもこちらは近世の建造物ではなく、街路の交差や土地の傾斜、埋められてしまった環濠などを目当てに歩き回る異質な集団のため、かち合うこともなく見学することができた。午後の研究会でも思ったが戦国時代に突如として、どうしてこんな低地に大きな町が出来るのだろうか。水運でもなく、住人の大規模な移住伝承もないとなると、やはり一向宗の力は恐るべきものといえる。なお昼に一時間以上の余裕があったため、事前に調べて今井より気になっていた北側の小綱と、八木も見て回ることが出来た。小綱には文明期建立の大日堂があり、地蔵盆によるものか地域の老人が中で宴会?をしており、今に生きる姿を見ることができた。八木は室町期の飢饉時に50貫文を出せる八木土蔵があり本来の地域中核都市だが、街道以外の路次の極端な狭さなど中世の様相があまり改変されていないようで、今井よりもそれらしく感じることが出来た。家に帰ってみるとかなり日焼けしたようで赤くなっていたが、研究会終了後の飲み会も含めて、試験ウィーク前の充実した時間となった。写真は今井環濠の南西部隅にある春日神社(左側)と旧常福寺観音堂(右側、棟札は慶長18年)。小綱・八木にも同様に村の鎮守と惣堂のセットが残っており、廃仏毀釈を乗り越えて(常福寺そのものは廃寺になったようだが)、往時の姿を残している点も興味深いところ。イメージ 1