wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

前期赤松氏の展開と禅宗寺院

ひょうご歴史研究室紀要第8号のPDFが掲載されたようなので成稿事情を記しておく(当方のPCでは閲覧すると変な書体となるが、ダウンロードしてファイルを開くとちゃんとなる)。昨年秋のシンポ報告がもとになっているため、一部は旧稿とかぶるが、今回で解散ということで、法雲寺・円応寺・宝林寺歴代に関するデータを示した。また内閣文庫デジタルでたまたま太白真玄の語録をみつけ、シンポジウムでは不完全だったが(シンポのまとめを担当してもらった古野さんには申し訳ないこと)、原稿化するため調べ直したところ広瀬守護代宇野四郎の実名が判明、室町期にあまり徴証のない小寺氏が飾東郡を拠点としていたことも明確になり、従来は満祐期の守護支配の深化とされるものが逆に現地との矛盾を高めた可能性から嘉吉の乱を見通したもの。結局はごくわずかの方に取りあげられるに留まった赤松研究はこれで打ち止め(あと1回、特に原稿化を前提としていない研究会があるが)。なお22頁につけた地図で街道はパワポで単に直線をひいただけで汚く点の大きさも異なるが、作り替える気力がなくそのままとなった。また前田氏の書評は、メンバーに入っていない理由とそれにかこつけてやり残した課題を記したもの。

ひょうご歴史研究室紀要 | 兵庫県立歴史博物館:兵庫県教育委員会