wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

兵庫津遺跡第62次調査現地説明会

本日は先週の研究会で教えていただいた表題の現地説明会に行ってきた。新聞報道http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201410/0007443403.shtmlは前々日で、しかもネット検索によると二社のみしか取り上げられていなかったようだが、100名ほどは出席者があり同じ方の連絡でわざわざ関東から夜行バスで来られた方もあった。某大型商業施設建設のための続けられている事前調査で、兵庫城の一部とその東側の町屋部分が対象となっている。今回のメインは築城当時の間口一間の町屋群が連続して見つかったことで、漳州窯が出土しており報道では1590年前後、あるいはもう少し遡る可能性がある。武家屋敷ではないことが注目されているが、全体が分からないため報道のような評価(「軍事的緊張が薄れていた」)を即時に下すのは危険だろう。なお情報をいただいた方によると、調査区端に急激な落ち込みがあり須佐の入江の可能性があるという。地盤は海砂層で兵庫城が立地しているのは砂堆状の高まりだということ。なお当方が気にしているのは今回の面の下層にあると思われる中世部分。担当者に伺うとそこまで掘る予定はあるということなので、期待したいところ。せっかくなので全面的にやってほしいのだが、大型商業施設の設計図と照らし合わせながらということなので、部分だけということらしいが・・・。帰路は西国街道神戸駅まで歩きはじめて湊川神社に寄った。今年でなくなる教養講義で正閏論を取り上げていたのだが、結局実地の写真を紹介することはできなかった。写真左が調査地。現場に職員が立っておりそこが町屋の入り口土間。残念ながらその前の路面は調査区外。なお他の人々は作業中で、施設側は休日出勤も活用して調査を早めさせようとしているようだ。写真右は湊川神社表門右にある楠公墓所で今でも「国史跡」らしい。なおこの右手には水戸光圀像があるのも初めて知った。周囲の燈籠は近世後期の紀年銘がある尼崎藩主が寄進したものがみられるため、建立当時からこの位置にあったものか。イメージ 2
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