wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

平安京左京九条二坊十六町跡・御土居跡現地説明会

本日は久しぶりに電車に乗り表題の現地説明会に向かう。地下鉄は相変わらず寒く、JRは座ることができなかった。京都駅に降り立つと10:30とは思えない人だかり。五山の送り火に合わせて宿泊していた観光客が動き出したようだった。現説会場のほうは遅れていったこともあって人も多くなく、専門研究者も京都研究で名の通ったお二人しか気づかなかった。当方のお目当ては平安末から鎌倉期にかけての地業跡で、新聞報道http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20140814000140では「貴族が建てた持仏堂」、現説資料http://www.kyoto-arc.or.jp/News/gensetsu.html(近日中に公開されるはず)では「持仏堂」という表現はされていないが、「邸宅」であることが自明視され、現地には持仏堂のイラストも掲げられていた。ただしその評価は極めて疑問。、担当者に確認したところ「柱穴で囲まれた一部のみに地業が存在していることから仏堂と判断」・「平安京内では寺院の建立は禁止されていたから貴族邸内と想定」・「ただし遺物のレベルからは貴族とは判断できない」というお答えで明確な根拠はない。しかも調査地は一町内の北西角に近く貴族邸では雑舎が位置する場所、近接して同時期の複数の建物跡・井戸・土器だまりがあり静謐な邸内の持仏堂空間とは到底思えない。むしろ戸田芳実「王朝都市論と荘園体制」を受けて拙稿「中世京都のクラと土倉」(千田嘉博・矢田俊文編『都市と城館の中世』)で論じた「クラ機能をもった堂」と評価するのが妥当だろう。これらはむしろ京の外れに立地することがあり、その点でもふさわしい場所。当方の京都研究は相手にされていないが、いちおう書き留めておく。
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正面中央に地業がある建物跡があり、そのすぐ奥にも建物跡、右手には井戸跡が並ぶ。西側が広くなっているためそちらが正面の恐らく外見上は阿弥陀堂だろうが、物資保管にも用いられたと思われる。ただしその西が御土居で攪乱されているため状況は不明。なおその数メートル西は油小路通で堀川水運との関係も考えられる。
雨が少し降ってきたので現場は切り上げ京都駅から北山へ。もともと夏休み前に行き忘れた調べ物の予定があったため、それにあわせて現説を入れたもの。偶然にも座った席の隣と奥に、別の分野のご無沙汰している方がおられご挨拶をする。いくつかの史料のコピーをすませ、雨も小降りになってきたので帰路に就く。阪急電車のダイヤが乱れていたのに少しいらつきながら(とくに淡路での接続が最悪だった)帰宅してから、北山にいる間の一時間に80ミリ以上の雨が降り、各所で道路が水没したことを知る。ちょうど助かったようだ。それにしてもTwitter用語(もともとゲーム語?)の「死亡」というのは余りにも軽く使われすぎていて怖い・・・。