wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

赤坂真理『愛と暴力の戦後とその後』

本日は京都で試験。最初の途中退席者が14問から3問選択の試験で、1問だけしか答えていないのはあ然としたが、それ以外はそれなりに書けているような気がする(まだ読んでいないのだが)。午後は河原町丸太町で目録取り。結局7回通ってある程度みることができたのが140点弱。当方の能力不足に加えてPC電源がもたずなかなかすすまない。せっかく古い論文に売券目録があるのを見つけたが、輪を掛けて文書が読めない方で余り役には立たず。それどころか当該機関が中途半端に起こした刊本にも読み落としが散見され困ったもの。裏写りしているのに撮影されていない端裏もちらほらあり、できれば早めにちゃんとした写真を撮り直してほしいと思いつつ、用意したから起こせといわれると逆に困るというジレンマ。愚痴はさておき昨日読了の電車読書の紹介。この間の「戦後は遠くなりにけり」という情勢の中、帯の「なぜ私たちはこんなに歴史と切れているのか?」につられ衝動買いしたものhttp://bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2882469。著者の母親が女学生時代に戦犯裁判の翻訳に携わったことを枕にした昭和天皇の戦争責任問題、「憲法」の「憲」という字の追及からはじまった英訳も含めて和製漢語によってわかったふりをしている日本語、子供の遊びの私有化によるガキ大将の消滅、あさま山荘事件でおわった学生運動、1980年の断絶とお笑いブーム・バブル、「他者」のないオウムなど、大江健三郎なら「あいまいな日本のわたし」という表現するようなものを、身体にまとわりつくようなものとして表現し、「敵なき大喪失」と内向きの暴力、アメリカとの関わりでできた国の骨格などを捉え返したもの。議論そのものは目新しいとは思わないが、研究者の書くものと異なり文体が本業は小説家らしくゾワザワさせるところが特徴で、一般読者の評価が気になるところ。なお著者は当方より一学年上で時代感覚としてはある程度共有できるが、バブル以前を実感できるのはやはり旧世代。当方がいまだに答が見つけられないのはこの20年来(いわゆる平成)は何だったのかということ、自分自身の生活が大学院進学からある種「何も変わっていない」だけで、日本社会全体には歴史があったのだろうか。