wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

廣瀬憲雄『古代日本外交史』

月曜1コマは250人超え、火曜3コマも総計200人超え、水曜1コマ29人。昨年同コマよりも月曜1.3倍・火・水は2倍となり、事前に人数が分からない火水はプリントの増し刷りに走らなければならなかった。昨年のアンケートもたいして評判はよくなかったはずなのだが、どういうわけなのだろうか。表題書http://bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=258572も月曜には読了していたのだが、受講者の提出物の整理に夜は費やしてしまい、当ブログまで辿りつくことができなかった。長らく有力学説の地位を占めてきた中国を中心とした「東アジア世界」論・「冊封体制」論に対して、中国王朝と北方・西方の遊牧民族などの勢力との対抗という非君臣的な国際関係を基軸とした東部ユーラシアという枠組みを設定し、4世紀から11世紀にかけて時間を前後しながら叙述したもの。外交文書の様式・外交使節との接見儀礼に焦点を絞りその多様性が示されているところは興味深いところで、50年ほどの唐の全盛期以外には君臣関係が貫徹されていなかったという。ただし本人が付けたのか、編集サイドの要望なのかは分からないが、月曜講義のネタになるかと思って飛びついたタイトルは全くそぐわないもの。載せられている図版は近年のユーラシア研究から引用されているものが多いが、日本列島は全く描かれていないか、朝鮮半島の南に九州が見えるのみというのに象徴されているように、叙述の中心は中国王朝と北方・西方勢力との関係。倭国史としては朝鮮半島情勢が強調され、中国王朝との関連性は、隋ー高句麗倭国の三国関係では倭国の遣隋使派遣は説明することができない、640年代の倭・朝鮮の連続政変も大唐帝国とは無関係、律令制の導入期は「大唐帝国」の崩壊過程と、むしろ低く評価される。また第二章の「第二次南北朝時代と平安朝日本」で数頁だけ北宋と日本との関係が叙述されるが、本書の最終的な結論は840年代に日本は東部ユーラシアとの政治的連関をほぼ喪失したというもの。むしろ倭国は隋代には「絶域」とされていたとあり、著者の枠組みでは倭国・日本は単なる辺境でとうていタイトルにする価値があるとは思えない。せめて日本における律令制の導入とは、著者の立場から見ると結局何だったとのかぐらいは説明してほしかったところ。