wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

保立道久『歴史のなかの大地動乱』

新潟には何冊かの本を抱えて出かけ、向こうでもいろいろ頂き物があったが、宿所の電灯は暗く、連日の飲み会と緊張感で疲れもあったため、ほとんど進まず唯一読みかけで持ち込んで読了したのが本書。著者は3.11直後からブログhttp://hotatelog.cocolog-nifty.com/blog/で『日本三代実録貞観11年(869)5月26日条の東北地方を襲った大津波地震の記事を紹介しており、私自身の講義でも昨年度・今年度に、第一回目の導入部分で文献史学における実証と史料批判の具体例として取り上げてきた。著者の解釈と少し異にする部分はあるが(講義では触れているがここでは省略)、その素早い対応に敬意を表して購入し、他の積ん読を飛ばして読了したもの。はじめにと終章を除く全体は四部構成になっているが、最初の三部は8・9世紀の政治史について災害を絡めて論じたもので、著者が年来主張する「王の年代記」の焼き直し。最後の四部は神話における災害神が怨霊に転化する過程について河音能平説を前提として論じたもの。全体としては平安前期が列島社会における未開から文明への転換期という著者の主張を、基礎はそのままにしながら震災というインパクトを受けて再論したものといえる。ただし東北の震災・御霊信仰の登場する9世紀半ばと、河音が重視する10世紀半ばの民衆運動を直接つなげたように見える部分は学問的には疑問。また中央政治史における地震の影響と神学的操作が基軸になっているため、個別の地震被害が具体像が余り触れられず(文献史料のみでの検証は困難とはいえ)、これが歴史学者の語る地震論の典型と一般読者に受け止められてしまうことへの危惧も感じられる。やはり文献史学からの地震研究にとって必要なことは、史料批判によって史実としての可能性の範囲を確定していくことにあるのではないhttp://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/43/3/4313810.html。これも新潟帰りの影響か。