wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

清水克行『耳鼻削ぎの日本史』

昨日は5年ぶりぐらいに自宅禁酒にしてみたが、相変わらずパワポ古文書学はうだうだで、体調もほとんど変わらず、帰りもほとんど寝てしまった。そうはいっても少しは電車読書が進み、先日書店で衝動買いしてしまっていたものを読了http://www.yosensha.co.jp/book/b199622.html。耳塚に関する伝承を否定する柳田国男とその習慣を主張する南方熊楠による論争をエピローグに(これについては全く知らなかった)、①中世の耳鼻削ぎが女性・僧侶を対象とした、身分的転落という深刻な問題をはらみつつ、教科書的俗説としての「残酷」なものというより、死罪を減じたある種の「やさしさ」としての刑罰だったこと。②戦国期に戦場が拡大・遠隔地化することで首験に代わって耳鼻削ぎが戦功認定で登場し、異文化である朝鮮にも持ち込まれるとともに、秀吉の鼻験一升で住民の生け捕りを認めるという方針によってそれがエスカレートしたこと。③秀吉・幕藩体制の下で、中世的慣習とは異なる「見せしめ」としての耳鼻削ぎが横行する一方で、生類憐みの令以降に寛刑主義によって、ごく一部の例外を除きその姿を消していき「未開」から「文明」へと転換すること。④各地の耳塚・鼻塚と称するものは著者の調査によると京都の鼻塚以外は同時代史料で論証できず、むしろ形状・立地などによる名称が先行し、後に伝承を生み出したこと。⑤世界史的にみると耳鼻削ぎは各地に分布しており、日本はそれをもたない中国隣国型国家から辺境型国家に転換することでそれを取り入れ、近世社会が本格的な「文明」化を模索し始めたときに、耳鼻削ぎは「未開」的な負の価値が与えられたと評価する。近世史料まで幅広く索捜し、著者の該博な知識がちりばめられた有益な書だが、疑問点が二つ。Ⅰ細かい点として、文学が史料として有効であるという根拠として、2010年代のOLの生活を知るうえで、給与明細よりテレビドラマのほうが魅力的だとするのが意味不明。かつてのOLという職種は、ほとんど非正規雇用に置き換えられているはずで、それに無頓着なテレビドラマ(ちゃんとしたドラマではOLなどと表現されないだろう)より給与明細のほうがよほどリアリティがあるように思える。Ⅱ先のは揚げ足取りとして次の問題はより深刻。著者は②を意識的に横に置き(微妙な書き方はしているが)、①・③を直接結びつけることで、中世の「未開」な民衆世界の残酷な慣習を、近世権力が拾い上げたとして権力基盤の弱さのみを強調するが果たして妥当なのか。著者が援用する桜井英治氏は室町を「未開」とは捉えていないはずで、「残酷」な行為を繰り返した大日本帝国軍兵士やナチス・ドイツが「未開」だったともいえないだろう。むしろ著者も参考にする藤木久志氏がかつて論じたように、民衆世界にもともとあったというより、対等な復讐原理を有する社会が、戦争による非対称な暴力をエスカレートさせていった帰結とみるほうが妥当で、「現代的課題」にもヒントを与えるものになるのではないか。著者は1971年生まれだが、それぐらいから下の方々の「左翼と思われたら死ぬ」病によって、研究史がかなり捻じ曲げられているように年寄りには思える。本年は日曜日のヒストリア大会にも出席できない。まっとうな学問の発展をくれぐれもお願い申し上げます。