wsfpq577’s blog

日本中世史専攻、大学非常勤講師などで生活の糧を得ていますが(求職中)、ここでの発言は諸機関とは全く無関係です

京都国立博物館「王朝文化の華ー陽明文庫名宝展」

遅ればせながら本日午前の講義を終えてから観覧。誤算だったのが中高年を中心に大盛況だったこと。とりわけ最初の部屋に師通以後の当主の日記、次の部屋に御堂関白記、その次の部屋に為房・信範など家司の日記が展示されていたため、「晴・晴・晴」「八月は大の月だから31日」など理解していないにも関わらず観客がガラスケースの前に並んでおり、熟覧するのが困難だった。最初に御堂関白記、次に和歌懐紙でも並べて、師通以下の日記が後半部部分なら少しは空いていたはずなのだが・・・http://youmei2012.jp/。とりあえず気づいた点をメモとして残しておく。①「猪熊関白記」建仁二年七月巻は具注暦の途中を切断して紙が挿入されている(大日本古記録にも注記)。②「近衛家領目録」は元徳元年具注暦の紙背に記録。③「深心院関白記」文永2年3月16日条は五行空きの具注暦のうち一行目に「天晴 参前関白御許」・五行目に「拾遺黄門来談和歌事」と記載され途中は空白(大日本古記録では反映されず)。後者は私事と意識したか? ④「岡屋関白記」建長元年3月24日条の鷹司万里小路の火災記事は25日条を記した後に記録したと思われる(大日本古記録は「行間補書」と記載)。⑤「後深心院関白記」貞治6年3月24日条の物故記事は具注暦直後には記さず25日条の直前に記録(大日本古記録は手元になく要確認)。⑤「後法興院」文正元年8月13日条「猿楽被来」は頭書などかなり複雑な書き分けがされている。⑥「大殿御筆」という御堂関白記の正月一日条三年分の抜書が軸装されており、正月儀礼に利用したと考えられ誰の筆跡か気になるところ。⑦消息類が展示されており一部は『兵範記』紙背から分離したという解説が付されているが、それ以外の源家長消息など内容から見て保存されないはずのものがなぜ残っているのだろうか。やはり現物を見るといろいろ考えさせられるものがある。展示替えがなされており前半も行くべきだった。